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第2部改訂版目次
《昭和40年代・50年代の東筑文化史》
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1.学生闘争の時代と三無主義 | 昭和40年代後半 |
2.生徒会活動の発展と文化祭の多様化 | 昭和40年代後半 |
3.研究班と同好会問題 | 昭和40年代 |
4.東筑の「進学校」化と文化祭の危機 | 昭和30~40年代 |
5.文化部・体育部の予算変遷 | 昭和40年代 |
6.文化祭組織の確立、クラス企画の活発化 | 昭和53年前後 |
7.昭和50年代の文化祭、その変遷 | 昭和50年代 |
8.北九州地方の文化遍歴・2 | 昭和20年代~現代 |
第2部
コラム ー頭髪自由許可問題、その顛末ー
これはあるOBから聞いた話なのだが、この問題で生徒総会(のような集まり)の中で多数決による採決をとろうということになった。この問題に関心があるのは男子生徒達であり、女子生徒にとってこの問題はあまりピンとこない。当然反応は薄い。 そんな中、ある男子生徒達はこの問題を解決しようと自分の腕力を交渉の道具としながら、本番の賛成多数を勝ち取った、、、、、そうな。 |
文化という面に関わらず、生徒が比較的率直に自分の意見を自由にいえた時代だったように思う。この原因は、普段から代議員会や生徒総会において、活発な意見を出す人が現在よりも多かったことにある。そういう人々に感化されて、いくらかの生徒が自分の意見をいえるようになり、(何事にもいい出し始めの人がいると、ほかの人が意見をいいやすいことは現在の生徒総会においてもいえることである。)結果として、活発な議論ができるようになったようだ。また、弁論部(戦前の講演部)がこの当時はまだ活動を行っていたことも、一因にあったと思う。
この当時の新聞には「生徒会不振」とか、「やる気なし」と書かれてはいるが、現在のそれとは根本的な違いがあるといえよう。それは生徒会役員が積極的に仕事を見つけ、はっきりとした公約を掲げ、それがうまくいくかどうかは別としても、それぞれが生徒会執行局として、責任感とやりがいとを十分に持って、取り組んでいたということだ。
時代の流れは「自分達の意志を一致団結して表現する」ことに向かっていた。何かを伝え、そのために懸命に取り組むことで、自分達の存在理由を見いだそうとしていた。この東筑高校では、個人主義を重んじる風潮も未だに根強くある。個人主義自体は決して悪いことではないが、まとまりのない状態になることは否めない。しかしその中でも全体の発展に思いをいだき、最初は嫌々ながらではあるが、文化活動、または生徒会活動に全力を注いでくれる人は確かにいたし、現在もいるのだ。
「三無主義」という言葉が、この頃の生徒を表すものとして使われている。三無主義とは、「無関心・無気力・無責任」のことで、要は生徒全体の主体性が失われていることをいいたかったらしい。しかし、この言葉は主体性を持っている人々がいるからこそ生きてくるものであって、現在使える言葉では決してない。昭和46年においては生徒総会で話しきれなかったことを、臨時総会を幾度も開くことで補おうとしていた。しかしその多くは人数が定足数を割っており、流会となっている。やる気のあるものが多かったからこそ、それについてこようとしない大多数の生徒を指さして、「三無主義」を叫んでいたのではないか。
コラム ー文化祭パンフレットについてー
どの高校も文化祭で力を入れているものの一つにこのパンフレットがある。これを見ると、その高校における文化祭の伝統がよくわかる、とも言われている。 たとえば、小倉高校や修猷館高校のパンフレットなどは、業者に頼んだ防水紙で作られていて、それだけでも「すごい」文化祭だろうと想像できる。逆に北筑高校などは更半紙の表紙に「文化研究発表会」とかかれているだけなのだ。 |
コラム ー「福岡県西京市」?ー
本文に「北九州市は公募の中の第2位」であったことを書いた。では第1位は何であったのか。答えは「西京市」。今から考えると恥ずかしい名前だが、でもそう書きたくなる理由もわからなくはない。当時の北九州市は翳りを見せていたとはいえ、九州でもっとも活気のあった市であったのだ。 公募のほかの名前として、「若戸市」、「北九市」、「洞海市」、「昭和市」などがあった。 |