1/20 コムシティ破綻から黒崎を考える 2−都心と郊外、そして黒崎


 黒崎ターミナルビル(以下、KTB)破綻。各報道機関はその原因を探るべく、続々と特集記事を組み始めました。事業自体の計画性から取り上げるもの、市の責任追及に専念するもの。黒崎の将来性をこの施設だけで考えることは夢想に近いものと言えますが、その一端を垣間見えることは出来るでしょう。
 色々ありまして、ずいぶん時間がかかってしまいました。今回は全3回の2回目、、、となっていましたが、一応今回で完結編にしたいと思います。今回は写真を参考資料としていくらか用いています。各項目のリンクを辿って頂ければ、参考写真を見ることが出来ます。現状把握の為にはまずはこの目で確かめる事が一番、ということです。
 最近の記事によると、三菱化学によるプリンスホテル周辺の再開発構想(読売新聞日経新聞)が具体化してきたようです。これを見る限り、市は黒崎の商業集積を方舟方式(詳しくは後述)によって生かそうとしているようです。


2.副都心・黒崎
 2-1 商業地域としての比較論
 副都心という用語に厳密な定義はありません。「都心の補完的機能を有するところ」であれば、西新(福岡市)であろうと、稙田(大分市)であろうと、または東田(八幡東区)あたりであっても副都心と呼ぶことが出来ます。
 黒崎地区の将来性を考える上で、どこか別の都市と比較すると機能面での問題など分かりやすくなるかと思います。ここでは手持ち資料の豊富な福岡市を対象地域としてあげてみます。
 黒崎地区の「副都心性」を福岡市内で当てはめようとするならば、ちょうど香椎と姪浜を足して二で割ったようなところになるのでしょうか。主役にはなれないけれど、無いと困ってしまうところです。都心の補完機能を担うというよりは、都心に行かなくてもすむような用事を果たすところ、と考えるべきでしょうか。
 これら都市のかつてと今を見てみると、中心部には個性こそあれ、都心を食ってしまうような独自の機能を保有していません。悲しむべきかな、黒崎は副都心というレッテルを付けられることで小倉には絶対に追いつけない壁を作ってしまったことになります。文教都市化した西新は天神の後塵を拝するほか無く、香椎に百貨店は立地できません(かつてはともかくとして)。
 あえて断言します。都心型商業地区はある種の消耗品です。それは生活に必須不可欠なものではなく、代替が可能なものです。常に話題がないとすぐに飽きられてしまい、モータリゼーションの発達によって競合相手が複数存在する今となっては、飽きられた都市にリピーターは訪れません。その都市更新度の差を考えると、例えば流通戦争とも称される天神の隆盛はある意味当然のことであり、黒崎の失墜に関してもそうだといえます。前回の文章で述べたように、設備更新(再開発)の空白の10年(バブル経済の前後に当たります)は、花に水を与えず実を結ばせようとしているようなもので、枯れかけた花をよみがえらせるのは容易ではありません。
 もし黒崎をあえて商業地区としてかつての栄光を取り戻したいと考えているのであれば、天神で起こり続けている流通戦争のように、今後一年ごとにコンセプトの微妙に異なる大型商業施設を(テナントの入居内定込みで)ひとつずつ作っていけば、6年で復活するでしょう。いや、復活どころか昔以上の隆盛を見せる可能性も高いでしょう。が、そんな資金をどこから捻出すればよいのでしょうか。そんな建物を造る土地は(既存市街地の)どこにあるのでしょうか。そしてその施設を維持できるでしょうか。

 2-2 現状の把握
 黒崎駅前ペデストリアンデッキと商店街とを結ぶエレベータのそばには1つの碑文があります。皆さんはご存じでしょうか。
 黒崎地区の駅から放射状に拡がる複数のアーケードという都市計画が完成したのは、この碑文にも書いてあるとおり、昭和15年の事です。この時、都市計画プランナーが考えたであろう、都市の重点は駅の集客力を商店街がいかに吸収するかということと、既存商店街(藤田商店街熊手通り商店街、およびその周辺)と区画整理地域とのスムーズな融合です。
 果たして昭和30年代、黒崎名店街銀店街は街の中心商業区域となりました。駅−井筒屋−ダイエー(またはユニード)というラインは回遊性をお互いに高めていき、それに挟まれた商店街は大いに潤いました。既存商店街は建物の更新頻度低下と相まって少しずつ影を潜めていきます。藤田商店街などはその典型的例でしょう。
 しかし、本来ならばここで旧市街地を道路拡幅工事に伴う再開発計画で甦らせることで、(外国ならば、別の土地に新市街地を作るように)時代の潮流に合わなくなり始めた市街地を活性化(又は方針転換)することが出来たはずですが、惜しむらく、黒崎ではそれがなかったのです。結果90年代後半からは過去の商業集積の取り崩しが発生し、2-3にあるような富の分散化を招いてしまいました。そしてそごう破綻という契機はあったものの、当然の流れとして雪崩を打つような商業施設の順次撤退を招きました。
 商業圏として小倉と黒崎の二つの核を両立させることに難を抱いている人も多いと思います。その心配は間違いなくあります。後述する富の分散化は北九州だけの問題ではなく、地方都市全体の問題となりつつあります。

 2-3 郊外というライバル
 現在、黒崎を中心とした都市圏(職域都市圏というべきでしょうか)に住む住民の多くは、以前に比べその購買意識を中間や国道200号線沿線のショッピングモール、または福岡市へ向けています。
 「買う当てはないけど、とりあえずぶらぶらする」人々が実は都市の活気をもたらすために一番大事な要素なのです。古来より人が集まる場所に市は自然発生します。無料駐車場を広く抱えた郊外型ショッピングモールは家庭における自動車の普及率拡大とともにそれまで黒崎中心部が享受してきた富を受けることとなり、相対的に下記のような多くのショッピングモールが乱立する事態に至りました。

 1981 サンリブ折尾
 1983 アピロス水巻(ダイエー水巻)
 1984 サンリブ高須
 1989 サンリブ三ヶ森
 1990 サンリブ木屋瀬
 1994 メルクス本城
 1995 ゆめタウン遠賀
 1996 サンリブエル上津役
 1998 ハイパーモール真名子
 1998 メガバンドール中間(ショッパーズモールなかま)
 2002 イオンショッピングセンター若松(二島)
 (郊外型ショッピングモールのうち、北九州市若松・八幡西区、中間市、遠賀郡4町所在のものの開店時期)
 (参考資料・各会社Webサイト、『北九州市産業史』)

 黒崎のように都市核が弱っているところをターゲットにして、これら施設は完成していきました。そしてこれを契機に郊外ショッピングモールの潮流は小倉へ、そして天神へと拡大しているように見受けられます。この流れはこれからの都市開発(特に地方都市に言えることですが)を考える上で、クルマにとって便利な環境と歩行者にとってのそれを両立させていくことが、長期的な発展につながることを予告しています。小倉や天神は、結果論としてうまく対処していたこの問題に対して、意識的に取り組んでいかなければならなくなるでしょう。
 これらの中間に位置する黒崎は交通問題を解決した上で、大局的に考えると両都心にとっての副都心、そして両都心の融合点と位置づけられることで、唯一復活の目があると考えます。次はその方法について考えることにしましょう。

 2-4 理想論と現実
 商業地域として魅力を維持するために避けることの出来ない、しかし多額の資金を必要とする「設備更新」。これ無しで黒崎を活性化することが出来れば、それに越したことはありません。ですが現状を考えると一度転落したイメージをソフト面だけで取り戻すことは不可能に等しいと言えます。魅力のある設備更新、もしくは大型テナントの誘致を行わなければいけません。商店街だけでかつてのような集客力を望めるかと云われれば、それは間違いなくNOです。
 先ほどから申し上げているとおり、現在の黒崎の都市構造は車社会を想定していない、道幅の狭いものです。もっとも他の都市が効率よく拡幅が出来たのは、路面電車や河川暗渠化などの偶然的な要素もありました。たまたま黒崎には中心部を縦横する軌道が無く、中心部の区画が再開発に耐えうるほど大きくとられていなかったため、現在の商業開発には適さない結果となりました。
 本当ならば、商店街の自助努力によって自然とにぎわいを取り戻すまちづくりがあって然るべきなのですが、はっきり言ってしまうと、かつてのにぎわいを取り戻すには、そんな各自の努力程度では手遅れとなっているというほかありません。

 2-5 鶏口となるか方舟に頼るか
 黒崎に残された希望は2つあります。ひとつは田町・藤田地区の歴史的風土を利用した街道風小規模モールです。もっとも、街道に拘る必要性はありません。黒崎周辺で生活する住民の日用品を供給する規模を持っていればよいので、妙な脚色を施さなくても良いでしょう。
 これの開発方法としては、現在の商店街を存続店舗の度合いである程度まとめ、藤田などにある完全に空いた店舗周辺を中規模のショッピングモールに改装していく方法がよいでしょう。道路に面した区域を取り払い、大規模駐車場とするのも手かも知れません。
 もうひとつは国道200号線沿いから九州厚生年金病院(2004春移転)にかけての用地を利用した大型設備更新です。モデルは福岡市・渡辺通り福岡三越より南側と考えてください。この周辺は人通りこそそれほど多くないものの、商業施設や駐車場、オフィスやホテルなどがほどよく配分されています。これからの天神地区の20年をこの地域が担うであろう事は想像するに難くないと思います。
 私が国道200号線沿線に望む姿は、手軽に停められる駐車スペースを豊富に確保した都市型商業施設群(この場合、今までの市街地を旧市街地と考え、商圏の保護を最優先とする)です。地上道路の主役を歩行者ではなく完全に車のみにしてしまい、歩行者はペデストリアンデッキ(空中回廊)で移動して貰うといったものです。現在の都市を考える上での現実路線というべき、乗用車を重視した都市設計は駐車場を介したものとなるので、都市景観としてはウインドウショッピングを楽しむような歩きの魅力を演出できません。それならば歩者を完全に分離した街並みを造ればいい、という事が私の持論です。
 かなり私の想像が先走ってしまいましたが、豊富な遊休地は自由な都市計画のインキュベーターとなり、瀕死の商業圏にとってノアの方舟となりうるでしょう。黒崎に残されているそれは、山手通沿いの企業社宅地しかありません(黒崎駅北側という選択肢もありますが、駅ビルの大幅な改良を必要としますし、小倉駅北口の例もあるように、人の移動が起こりにくいでしょう)。もし車社会でダイナミックな変化を望むならば、ここしか希望は残されていないのです。


3. 「私的黒崎再生計画」
 最後に実現性の有無はともかくとして、私が考える黒崎(主に現市街地の)再生への提案を箇条書きにしてまとめることにします。

 ・コムシティの3階は「JR黒崎駅西口」にしてしまう。筑鉄との共同駅と考え、直接の乗り換え口を作る。
 ・3階から直接バスターミナルに降りられるようにする。また、バスターミナルの南北間交通用にバスレーンに横断歩道を造る。
 ・その上で100年償還を想定した長期的な商用利用を考える。
 ・既存空きビルの活用(旧シネリーブル黒崎・トポス・長崎屋(菅原ビル)等)。商業雑居ビル化も視野に入れて。
 ・太陽会館の高層化。駅前正面の顔造りとペデストリアンデッキ滞留人口の商店街への流動性を持たせるため。
 ・黒崎地区商店街全店舗の深夜営業実施。
 ・深夜営業と連動したバスの深夜運行実施。
 ・飲み屋のタクシーチケット配布、などの交通機関との連携強化。
 ・「第二スーパー大栄」の設立(商店街の会社化)。
 ・商店街にイベント広場を設ける(将来の都市更新への布石)。

4.結び
 戦後八幡市の市長となった守田道隆氏は黒崎を「北九州の新宿にしよう」と考えたそうです。その頃の新宿は、まだ都庁が出来ていない、行政機能の中心というよりは、若者の街といった感覚でした。黒崎は新宿にはなれなかったものの、未だ多くの人に愛される、親しみのある街です。
 ある程度の資本がない限り、往時の復興は困難な状況にはなりましたが、せめて商店街だけは何かを起こしていこうという姿勢で店舗配分や全体的な企画を行って頑張って頂きたいと、心から願います。

参考サイト
北九州市建築都市局再開発部再開発課サイト  http://www.city.kitakyushu.jp/~k1403040/
黒崎ターミナル株式会社ウェブサイト http://www.com-city.tv/(閉鎖)
北九州市建築都市局都心・副都心開発室副都心開発課サイト  http://www.city.kitakyushu.jp/~k3503020/


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