6/14 コムシティ破綻から黒崎を考える 1−副都心の履歴書


 黒崎ターミナルビル(以下、KTB)破綻。各報道機関はその原因を探るべく、続々と特集記事を組み始めました。事業自体の計画性から取り上げるもの、市の責任追及に専念するもの。黒崎の将来性をこの施設だけで考えることは夢想に近いものと言えますが、その一端を垣間見えることは出来るでしょう。
 今回は全3回に分けて私なりの視点から今回の事態に至った原因と黒崎という都市の今後の方向性について考えてみたいと思います。

1.歴史的経緯
 今、私の手元には一枚の地図があります。ゼンリン住宅地図八幡西区北部の1982年版の中に描かれている黒崎詳細図です。
 ここには今は無き黒崎の大型商業施設が所狭しと並んでおり、まさにこの頃が黒崎地区の全盛期であったといえるでしょう。
 黒崎そごう、ジャスコ黒崎店、ダイエー黒崎店、ユニード黒崎店、長崎屋や鉄ビルストアーもあります。これらの全てが消えてしまい、今は不況のまっただ中。副都心と呼ばれ続けるためにこの地区は何が足りなかったのでしょうか。
 そもそもの原因、これは黒崎地区のみならず、北九州地域全体に言えることですが、銀行の本店がこの地域に存在しなかったことが地域戦略の実行面で重大な損失を与えています。今回の破綻劇にも金融機関が多少絡んでいます。はじめから金融機関は再開発への融資に応じませんでした。この時点から採算性を疑問視するべきだったのですが、そうはならなかった。この裏には未だ続く八幡−小倉間の影響力の綱引きが絡んでいます。

1-1 谷市政時代
 事は谷市政時代に遡ります。谷市政初期最初の懸案は市役所の位置問題でした。旧五市の影響力を考え、現在の市総合体育館付近に建設することが一旦決まったのですが、これは軟弱地盤などの影響もあって白紙に戻り、改めて小倉城内に決まりました。その後山陽新幹線の駅が小倉にできることが決まり、八幡側では不満が高まりました。「なぜ小倉ばかりに施設を作るのか」、「旧五市は平等に扱われるべきではないか」。これはある意味当然の話でした。この当時はまだ小倉地区を都心と定めているわけではなく、むしろ市財政を支えていたのは黒崎地区をはじめとする八幡の工業地帯でした。
 市長は教育施設の建設を持って八幡に報いようとしました。旧八幡市の各箇所に公民館が造られたのはちょうどこの時期です。また八幡−小倉両都市の融合を図るべく東西間のモノレールも計画されました。八幡西区の誕生と前後して、黒崎地区の拠点化を見越して民間による開発も活発になっていきました。再開発ビル(黒崎メイトビル)への黒崎そごうの誘致、そしてコムシティ構想の発端とも言うべき駅東地区再開発構想が持ち上がったのもこの頃です。当時の民間による投資は活発で、長崎屋がかつて入居していた第二菅原ビルもメイトビル開発と前後して出来たものです。

1-2 「副都心化」とプリンスホテル構想
 北九州市の相対的地位低下(福岡市の拠点化)により、市は集中的投資を行わざるを得ない状態へと陥りました。その投資地域に選ばれたのは黒崎と小倉です。以降市の計画はこの2地区を拠点として資本を集中投資していくようになります。谷市政後期、昭和60年になると、この扱い方にも多少の変化が生じ、新幹線駅のある小倉を都心地区、黒崎を副都心地区と位置づけるようになりました。人の流れや市役所の位置から考えるとある意味当然の流れではあるのですが、このことが末吉市政になり深刻な事態をもたらすこととなります。
 相対的地位低下とともに始まった企業移転は多くの企業遊休地を生み出すこととなります。そのうち黒崎地区に一番近かった三菱化成幸神社宅跡地(約3万坪)を利用して、1984年からここにプリンスホテルを中心としたシティモールが計画されました。1989年に完成したホテルを核とした、プリンスデリカ(高級志向ショッピングセンター)や、テニスコート、多目的ホールといった各種関連施設は、黒崎の潜在的需要を見せつけるとともに、必ずしも場所が黒崎商業区域の中心でなくても集客力があることが改めて確認され、これ以降の駐車場を多く持った郊外型ショッピングモールの隆盛、いわゆる「車社会の到来による黒崎地区のドーナツ型衰退」を予感させました。

1-3 末吉市政の到来
 1987年。末吉興一市長の誕生は、東九州軸への視点を意識した小倉を中心とするXの都市軸(若戸−小倉−曽根苅田の日豊本線軸と門司−小倉−八幡黒崎の鹿児島本線軸)重視を決定づけました。このため、都心・副都心といった名前で呼ばれてはいるものの、以降の資本投資は小倉都心への集中投資とその補完機能としての拠点地区駅前投資に絞られるようになりました。
 小倉における開発は、まず民間資本である小倉興産によるショッピング・コンベンションゾーンの開拓から始まりました。これには市のコンベンションゾーン開発計画(北九州市国際会議場(1990)の建設が代表)という後押しがあったことは言うまでもありません。これ以降公共投資の分野においては北九州市大手町ビル(女性センタームーブ・1995)やメディアドームの完成、モノレール延伸(ともに1998)、小倉北区役所改築(1999)や水環境館開業(2000)、そしてリバーウォーク北九州(2003)の完成と次々と資本投資が進みました。一方民間資本の持つ企業遊休地開発も公共のそれに遅れた形で進み、西日本鉄道によるチャチャタウンの開発(2000)などが街の枠組みを変えていきました。もちろん、これらの基盤として市を中心とした積極的な駐車場整備(勝山公園地下駐車場・室町駐車場など)があったことは注目すべきでしょう。
 一方、1989年黒崎駅前にペデストリアンデッキが完成(同年、民間資本によって熊手地区にデビュービル完成)して以降、黒崎地区において行政は投資を行っていません(1994年に完成した穴生ドームは、小倉で言う三萩野や福岡・博多で言う桜坂に近い感覚で、都市中心部への投資とは言えません)。公共投資という分野においてここ15年間、黒崎地区は枯渇していた状態でした。都心・副都心という位置づけが行われたにもかかわらず、黒崎は副都心らしい環境整備・公共投資という恩恵を受けていないのです。小倉のめざましい変化に比べると、「なぜ八幡・黒崎は」という思いに駆られたのは、何も地元の方だけの話ではないでしょう。

1-4 「遅すぎた黒崎再開発」
 1996年に黒崎名店街(CAMS)新アーケードが完成しました。実はこの前後の時期に黒崎副都心の高層化計画というものが持ち上がっています。これは元を辿れば1970年代の黒崎そごうをメインとした開発をベースに考えられたもので、道路拡幅によって斜線制限の問題を解決し、高層化によって都市のリニューアルを図ろうといったものです。これは地元住民からの大きな反発を招きました。当時の世情を考えるとバブル経済崩壊から長い不況の一歩手前にさしかかっていた頃です。大型開発に伴う負担をよしと考えられなかったのはある意味仕方のないことと言えるでしょう。ただ、敢えて言うならば、この計画がせめて10年前から進められていれば、と悔やむばかりですが、もし計画が持ちかけられていたとしても果たして事業開始まで持ち込められたかどうかは疑問です。コムシティ計画=黒崎駅西地区市街地再開発事業はその事業に30年かかっていますが、その時間の殆どは住民同士の意見のすりあわせに費やされているからです。
 もう既に忘れ去られた感もあった黒崎の事業がここまで進んだのは、小倉との格差が広がった事に対しての住民の焦りと市への不満、そして市自体が小倉の事業が民間投資の活発化レベルまで進んだため、副都心まで目を向ける余裕が出来たことが背景にあったと言えます。黒崎の惨状を招いた市に対する責任問題の事前阻止という目的もあったかもしれません。コムシティの計画実行は、タイミング的にはある意味黒崎地区の「反乱」を防ぐための飴を与えた格好になったことは否定できないでしょう。

1-5 筑前と豊前、黒崎と小倉
 旧国名を持ち出すことがナンセンスであることは十分承知ですが、ここで考えておかなければならないことは、北九州市という都市がもともとひとつの都市がスプロール的成長によって現在の形になったのではなく、港町門司と商業都市小倉、そして工業主体の若松・戸畑・八幡の5都市が融合して出来たということです。40年以上前には各都市にそれぞれの行政主体が存在し、協力分野は多少あったでしょうが、当然対立面も存在したのです。
 現在モータリゼーションの進展によって人間ひとりの生活圏は大きく拡がりました。行政レベルでは一体化した北九州市では都市間の融合も進み、大きく分けると小倉を中心とした生活圏と、小倉に行政的に依存した黒崎・折尾を中心とする生活圏の2つが存在していると考えて良いと思います。ただし、同時に八幡西区在住者の3%以上の方が現在福岡市に通勤・通学しているという事実を見逃してはなりません。
 黒崎地区を副都心といいながら、小倉・門司・下曽根・戸畑・若松と駅前の再開発事業が先行され、すっかり副都心という名前が形骸化している現在、これは小倉との行政投資の綱引きに負けた結果である、または東九州軸への重点移動の過程であるという見方をすることも出来ます。歴史的に見て、これらの考え方に自明の理を見ることは否定できませんが、私自身は最終的な責任は地元住民の時流への乗り遅れにある、と見ています。
 たとえ「都心・小倉」が真実であったとしても、各地元商店街には昔は栄えていたという自負がありました。黒崎地区はバックに抱える工業地帯の域外移転が遅かった分、他の既存型商業地域より「活きが良かった」時期が長かったのです。ある意味、このことが今回の事態に悪影響を落としている事は否めません。ほんの20年前までは新しい施設を作らなくても、駐車場が多くなくても黒崎には域外から多くの人が来ていたのです。これがこれからも続くと考えた時点(商業地域の施設更新としての開発を拒否した時点)で、商業地域においての事業の失敗を意味しています。今後行政側からの新たなアプローチがない限り、黒崎は地産地消型の小規模生活圏としての未来しか残されていません。しかし地元住民がそれ以上の発展を未だ望んでいるのなら、可能性は決してゼロではないと思います。次回は黒崎の現状把握を行い、今後の方針を探ってみたいと思います。

参考サイト (細かい参照記事は連載最終回に一括紹介)
北九州市建築都市局再開発部再開発課サイト  http://www.city.kitakyushu.jp/~k1403040/
黒崎ターミナル株式会社ウェブサイト http://www.com-city.tv/
北九州市建築都市局都心・副都心開発室副都心開発課サイト  http://www.city.kitakyushu.jp/~k3503020/


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