第4部増補改訂版目次
《平成8、9年の市原猛志自叙記と平成10、11年の東筑生徒会活動について》
 
 
題名 該当年代
1.良い文化祭の条件
2.平成8年、試行錯誤の文化祭1・方針 平成8年前期
3.平成8年、試行錯誤の文化祭2・内容 平成8年7月7日
4.幻の生徒会向上協議会 平成8年後期
5.生徒会会則全面改正案 平成8年後期〜9年前期
6.平成9年、努力と結果の文化祭1・準備 平成9年前期
7.平成9年、努力と結果の文化祭2・内容と反省 平成9年7月13日
8.資料整理、そして卒業 平成9年後期
9.東筑百年史、内容評価
10.百周年記念文化祭 平成10年7月12日
11.役割を受け継ぐもの、想いを受け継ぐもの 平成10〜11年度
12.生徒会活動の分岐点 〜現代

第4部(増補改訂版)



1.良い文化祭の条件


 文化祭の歴史を中心にして高校文化史を述べてきたわけだが、ここで「どの年の文化祭が一番優れていたか」という疑問が浮かんでくることだろう。一般論からいえば、その年その年の文化祭に携わった方々がどれだけ満足したか、ということが文化祭の優劣を決めるわけで、そうなると一番は人によって異なることになる。ただ、そういってしまうと元も子もないので、企画の点に絞って客観的な優劣を決めたいと思う。
 現在残されている数少ない生徒会資料から、文化祭の優劣を判断することは難しいが、だいたいの見当はつく。文化祭資料の比較的残されている昭和50年代以降、良い文化祭だといえるのは、おそらく下記の6回であろう。
 
  1. 、昭和50年度(クラス参加自由化以前の段階で8クラスもの参加があり、文化部の企画も充実している点を評価)
  2. 、昭和53年度(クラス企画に加え、クラブ参加の高度な内容を評価)
  3. 、昭和57年度(学生弁論大会の復活と総合力から判断)
  4. 、昭和63年度(文化祭実行委員会の努力を評価)
  5. 、平成4年度(クラス企画の充実性と生徒会企画の豊富さ、文化祭1日化という不利な条件の克服から判断)
  6. 、平成9年度(クラス企画・グループ参加企画の内容、装飾性を評価)
このほかにもなかなかのものもあったが、特徴的なものとして、以上のものが挙げられる。
 さて、これらの文化祭には共通するものがある。それは環境の変化だ。環境の変化には外的なものと内的なもののふたつがあるが、たとえば昭和50年度の文化祭が行われた時期、校舎(主にクラス棟)の改築工事が行われていた。これは生徒会執行局にとり、外的な要因だといえる。それに対し昭和53年度の文化祭では、生徒総会の定期化の復活、そして6月に行われた生徒総会でのクラス企画自由化の余波が色濃く残っている。これは内的な要因だといえよう。このような現象は体育祭にはみられない。
 ここまで書けばいいたいことがわかるだろう。文化祭は努力によっていくらでも盛り上がることができる。文化祭の質を高めるためには、その学校自体が盛り上がりを持っていなくてはならない。盛り上がりを創るためには、たとえば野球部の甲子園出場などもその要因になるわけだが、これはたとえるならば栄養剤を飲むようなものだ。野球部はともかく、生徒会全体からみればその盛り上がりは持続力のあるものでは決してない。盛り上がりが毎年の恒例となり、やがては伝統となっていくためには、意識改革が必要であり、それを行うには、生徒会改革の実行年度から最初の5年間が、もっとも大事である。この第4部では私が関与した平成8・9年の文化祭を詳しく紹介し、それ以降の生徒会活動の動向を踏まえながら、私が考える文化祭改革について述べてみようと思う。



2.平成8年、試行錯誤の文化祭1・方針


 「本当の文化祭」を知っている人はいないだろうか、この頃私はそうつぶやいていた。昨年度の文化祭は良くない、と生徒・先生の両方からいわれ、その現状に対する危機感から、文化委員長になってはみたが、情報量がいかにも少なすぎる。私が前もって前年度の文化委員長から受け継がれたものは、文化祭の準備日程表のみだった。これでは何が良く何が悪かったのか、内部の問題が把握できない。私のいた頃の生徒会執行局は、部分的にはうまくいっていた部分もあったが、全体としてはうまく機能していたとはいえなかった。内部の事情はともかくとして、まず一番の問題は、生徒全体のやる気があまりなかったことだったと思われる。私はこれに対する方法を考えることにした。
 まず周りに多分の期待をかけるより、自分が動くことにした。自分が一生懸命に動き続け、また文化委員会の中ででも叱咤激励を繰り返すことで、「今年の文化祭は今までと違うのだ」と2・3年生に思わせるように試みた。結局は文化祭の中心は2・3年生であり、ここの企画の善し悪しで文化祭が決まるといっても良い。1年生には過去の文化祭の中で良い企画などを聞かせ、文化祭への先入観を良い方向へと導かせようとした。結局、多くの文化部やクラスとの各企画の交渉に多くの時間を費やすこととなった。これを中間考査までのあいだに行うことによって、各企画に早め早めの準備をさせようと試みたのだ。
 文化部に関する交渉はその企画の向上に関する話題の他に、会計の仕事と多少重複することとなったが、予算に関する内容の協議がかなり多かった。私は、基本的に昨年度と似通った内容の企画には、難色を示した。その企画の優劣はともかくとして、何の躊躇もなく、例年と同じ作業しかしようとしない文化部の怠惰な姿勢には、嫌気がさしていたからだ。私の代以降には、例年よい企画を行う部活動を優遇する姿勢をとっても良いが、それは私の代以降がすることであって、私の役目は、文化部の意識を改善すること。つまり、例年同じ企画を適当に行っても良いという態度(この文章に機嫌を悪くする文化部の人間もいるかと思うが、勘弁して欲しい。私は、あなた方に今まで以上の期待をしているのだ)を改善することであったからだ。
 文化祭は体育祭と同じように、生徒の持っている情熱の度合いによって大きな差が生じる。これは取り仕切る側にいくらかの責任があるのだが、それ以上に責任があるのは上級生やOBの方々であろう。特に先生方の一部にこういった考え方があったように思えるのだが、「ここの文化祭はこんなものだ」と勝手に割り切る傾向がある。そう考えるのは自由だが、いろいろな可能性の芽を、教育的でない、または時間的に無理だという理由で摘み取っていることにはどうしても納得がいかない。もう少し生徒の努力を買ってくれたらいい文化祭ができるのに、そう思う。そしてそれをサポートするのが生徒会役員、または文化祭実行委員であることはいうまでもないであろう。
 話を本題に戻すが、この年の文化祭は自分にとって不本意なものであった。そもそも私は一介の音楽部員であった。この学校の文化祭を中学生徒会経験者として冷ややかな目でみることはあったが、「自分ならこうしよう」という具体的なビジョンがあるわけでは決してなかった。今でこそ、「文化祭とは、文化とはかくあるべきだ」というような考え方を曲がりなりにも持つようになったが、何しろそのころは、「去年の文化祭のようにはなるまい」という反動的な考え方しかなかった。これでは、私に指示された人も多少は困惑しただろう。自分が入学したときに「生徒会補佐」という役職が存在していたら、と悔やまれてならない。もしあったら、私は当然のごとく生徒会補佐に入っていたであろうし、そうすれば私の生徒会改革はもっと方向性を持ったものとして後輩達に受け継がれていたと思えてならない。
 結果としてこの年の文化祭は、昨年のそれよりも良い評価を受けることとなった。これは生徒会執行局の努力というよりも、各クラス、特に2−6の努力(これについては後述する)に大きなウエイトがあっただろう。私がこの年に行ったことは、今まで2クラスが共同で行ってきたクラス企画を、1クラスひとつという風に変えたことと、かくし芸大会を廃止したこと。そして自分で予算の決定や各クラスの企画に介入し、忙しく動き回ったことだけである。一番忙しい日には生徒会室と職員室やクラスとのあいだを一日10往復以上ぐらい行ったであろうか。とにかく、自分でしなくてもいいことでも、率先して動き回った。わからないところは、過去の資料を適当にあさって、考えた。それが過去から考えて一歩後退していたとしても、(実際そういうことも結構あった)伝統が一回断絶しているのだ。それにはそれ相応の代償がなければ文化祭の復活はなかったであろう。
 私はそれほど楽観主義者ではない。1年間で文化祭を自分が理想とするようなものになるとは考えもしなかったし、実際そうであった。私は、自分の理想が自分の後輩に忠実に受け継がれるとはあまり思っていないので、とにかく来年までにはしっかりとした形にしなければ、と思った。私の性格上、関わったものには最大限の責任を感じてしまうので、この時点で私は東筑高校生徒会執行局の守護神(または疫病神)的役割を負うことを是認していたといえよう。このような文章を表した主要因は、この年の文化祭の時点で定まっていたのだ。



3.平成8年、試行錯誤の文化祭2・内容


 平成8年度文化祭の具体的な内容を述べることにしよう。この年の文化祭は前述したように、1クラス1企画方式で行っている。これは各クラス間の連絡が非常に難しいであろう、という1年時の経験に基づいたものだ。これによって総企画数は一挙に2倍となった。当初心配されていた教室数の不足は、似たような企画を1教室に押し込めることによって解決させた。
 昨年度からの教訓といえば、いわゆる「休憩室」を作らないということが、この年の私たちの重大な目標であった。昨年度は適当な展示企画を作り、そこを休憩室にすることで企画として認めてもらおう、という考え方を持ったクラスが、特に2年生に多くあった。私はこれを企画段階で防ごうと試みた。その結果、私は昼休みの多くをこれに割くこととなったが、これは仕方のないことだとあきらめた。本番では製作企画が多くできるようになったが、それは私が思っていたほど独創的なものとはならなかった。しかし、1年間でこれだけのものができたのだから、とりあえず成功したといえるだろう、多分。
コラム −高倉健とESSの関係−
 本文とは余り関係がないが、高倉健(本名・小田剛一)氏はESSの出身だという説がまことしやかに流れている。しかし、これは年代的にあわない。ESSの創部は昭和53年であることから考えると、小田氏はESSのクラブ員であっても部員ではない、と断言できる。
 戦後初期に進駐軍による、ESS授業があった。小田氏はこれを受け、クラブを作ったと考えられる。これが噂のもとではないか。

 私はテーマというものに重要性はない、と思っている。過去の文化祭資料には文化祭にテーマを作らなかった年(昭和49年度の文化祭)もあるくらいだから、テーマなどいらない、むしろない方がいいとさえ思うこともあるのだ。しかしこの年の文化祭は少し様子が違った。何でも福岡県の環境モデル校に選ばれたらしく、その結果を平成9年に発表しなければならないので文化祭で何かしてほしい、という先生方からの要望があったのだ。私はそんなことをする暇などないと思った。私は昨年度の文化祭が失敗した理由のひとつに、執行局の独自企画が多すぎたことを挙げていたので、この要望には賛同しづらかった。生徒会担当の先生であった坂口裕治先生もこの考えに同意見であったので、その代替案としてあげられたのが、「1年生の企画を環境問題に関する製作企画にしよう」というものであった。結果、この年の文化祭は表向きの長ったらしいテーマ「感動との出逢い〜」と「環境問題」というふたつのテーマが登場することになった。正式には「感動との出逢い〜」だけなのだが、「東筑百年史」にふたつのテーマが記載されているのは、先生方のあいだにこのような状態に対する混乱があったからだと思われる。
 その過程がどうであれ、1年生へのテーマの具体化は成功であった。まだ学校にも慣れていない段階で、複雑なものを作らせることは無理であるので、はじめからある程度の制約をつけることが、1年生に企画の選び易さと準備期間の余裕を与えることになったのだ。
 この年の文化祭を語るには、2年6組の作成した「電撃イライラ棒」の存在は欠かせないだろう。このクラスの宇都暢輝氏や、私の友人でもある椛島悠氏が中心となって作成したそれは、その作成時間や(中間考査頃から作成、計画はもっと前からと考えられる)予算、(予算計上額は26000円。実際はそれ以上であることは疑う余地がない)そして本番の人気(文化祭後のアンケートの結果、全校生徒の6割以上がこれを支持した)の3点で今までの東筑文化祭史上、最高の企画であった。この年の文化祭が良い評価を得られた理由の半分は、この企画に依っているともいえよう。彼らは次年度も文化祭史上に新たな1ページを築いているが、それについては後述しよう。
 文化祭はイベントである。イベントにはそれをプロデュースするプロデューサーがいるわけで、文化委員長はそれにあたる。生徒会会則によれば、文化部を統率する役目をも持っているわけだが、文化祭に関していえば、文化委員長は一年中それに専念する専門職であるべきだ。人それぞれに事情はあるだろうが、仕事の量から考えると、私は生徒会役員は部活動に参加しない方がいいと思う。(これは生徒会執行局の公正さの点からいっても、十分にいえることである)部活動を中途でやめた私はこの後、文化祭、そして生徒会活動全体に全精力をそそぎ込むこととなる。



4.幻の生徒会向上協議会


 そのころの私の持論は、「現行生徒会執行局は、対抗組織を持つべきである」であった。ひとつの組織が活動を行うよりも、それと同等力の勢力を持った対抗組織がいる方が、ひとつの議案でも切磋琢磨され、より良いものとなることができるからだ。要するに、外国の議会によくある、2大政党制のようなものを想像していたのだ。私は考えたらとりあえずすぐに実行に移すタイプであるから、鍋島明良氏や堀川功司氏など、4、5人の仲間を集めてひとつの仮組織を作った。それが『生徒会向上協議会』だ。
 この構想は1ヶ月余りで失敗に終わった。理由はこの組織が私ひとりの構想力によって存在していたようなものであったからである。ほかの面々はそれなりの愛校心は持っていたし、生徒会の現状を憂いてはいた。しかしこの組織が正式なものとなり得ず、私が多忙となるにつれ、集まりも悪くなったことで、組織の瓦解は決定的となった。ただし、このときのメンバーは後に平成9年度文化祭の企画の実行に深く関わることになる。なぜこのような組織を作ろうと考えたのか、それについては私の考え方の変化について述べるべきだろう。
 私はこの頃から自分が3年生になったときのこと、そして自分が卒業したときのことを考え始めるようになった。自分が中学校の生徒会長をしていた頃から、高校の生徒会役員になるまでに構想してきたことを残り一年ですべてやり終えることは、もはや不可能である。それならこれから現れるであろう、有望な後輩達に自分の考えを少しでも受け継いでほしい、そう思った。(この第4部自体もこのことの一環と考えて良い)これによって、自分のこれからやるべきことが決まった。それは後輩達が少しでも活動を行いやすいような、環境作りを行うことだ。つまり、生徒会組織の改革である。
 紀元前のギリシア人の歴史学者であるポリビウスは、「興隆の原因を精神的なものに求めず、あくまでシステムにより、気分を一新せざるを得なくする」ことによりローマは繁栄したのだと分析している。東筑高校は確かに、伝統の面においては恵まれているのだと思う。しかし前述した通り、伝統があればあるほど一定の精神主義が生まれることも事実だろう。この精神主義が小倉高校のように文化祭の質を落とさないように機能してくれるのであれば、別に問題はないが、残念ながら現在はその反対の力としてでしか働かないようである。
 私は精神的なものに過大な期待を持っていない。伝統校であろうとなかろうと、生徒会活動の善し悪しは思っているほど変わらない。ただ決定的な違いは生徒会を取り巻く環境、そして生徒会機構の潤滑性である。金が足りなければ文化祭はできない。生徒会会員全体に話が届かなければ、執行局の独断だと糾弾される。文化部が活発でなければ学校に潤いがない。これらすべての問題がシステムの改善によって解決するわけではないが、少なくとも何かが変わるはずである。私はそこから学校に活力を見いだせたら、そう思った。



5.生徒会会則全面改正案


 私は変化を求めた。精神的な変化ではなく、システムの改善の結果、より円滑、または活発な活動を行うことによって起こる、一種のカルチャーショックを求めたのだ。私は2年生の夏休み以降、生徒会の歴史書(この文章の原型)の作成と平行して、生徒会会則の改正に向けての作業を始めていた。まずは今まで生徒会会則がどのような経緯を経て今のようなものになったのかを調べた。
 この東筑高校という学校は明治31年に開校しただけあって、多くの運動系部活動と同窓会の組織がしっかりとしている。しかし生徒会組織のそれについては、部活動やその他組織との兼ね合いもあるのだろうか、どうもはっきりとわからない。
コラム −生徒会オリエンテ−ション−
 現在はなくなってしまった生徒会オリエンテーションは、生徒会活動を新入生にわかりやすく教える絶好の機会であった。しかし、実際はこの時間は余り有益に使われたとはいえず、むしろその後に行われた部活動紹介の方がよっぽど生徒にとって有益であったことだろう。
 パンフレットに「チャート式生徒会」とかかれている所を見ると、やはり東筑高校は学業中心なのか、という一抹の寂寥感が感じられる。
私は高校に入学したとき、その当時の生徒会執行局が作った生徒会オリエンテーション用のパンフレットをみたのだが、その中の生徒会組織図が何を書いているのか、あまり理解できなかった。誰にでもわかるものとはいわないまでも、もう少しすっきりとした組織組みはできないものかと私は考えた。だいいち、生徒会会則に書かれている執行・特別両委員会の仕事の差なんてものはなくなっている。よくよく考えると、この会則には無意味な組織、名称が多い。
 とりあえず、組織改革をするには誰かが動き、何らかの変化を起こさなければ何も変わらない。私は来年度の生徒総会に向けて、会則改正案を次期生徒会長の森本洋介氏と協力しながら作ろうと考え、自分なりの改正案を作り上げた。現在の生徒会会則に書かれている、専門委員会という委員会全体の名称や生徒会補佐の明文化、生徒会役員の任期延長などは、このときに作られたものである。ちょうどそれが平成9年の5月の初め頃。今もその当時の資料が残っていれば幸いだが、何しろ試案であったから不備な点も数多かったことであろう。生徒会長との連携がとれず、結局は自分が作ったものを先生方が大幅に削ったものが生徒総会に諮られ、可決したわけだが、これには少々の悔いが残る。
 自分のみが作ったものを出すのはたやすい。しかしそれでは、生徒会執行局全体の企画力の向上には役立たないし、また時間も足りなかった(ここが最大の問題であった)ので、自分の思うような改正案を作ることができなかった。たとえば、家庭クラブ委員の存在が現会則でもあやふやなままである。また、部活動と執行局との連絡がとれにくい。これに関しては私は部活動の連絡委員会を月1回は開くべきだと思うし、それ専門の委員長も執行局、または部活動の中から選ぶべきだと思う。等々考えるべきことは数知れず、私の高校生活はそれをすべて行うにはあまりに短すぎた。そう、文化祭の仕事も残っていたのである。



6.平成9年、努力と結果の文化祭1・準備


 私は生徒会役員が決まった段階で、文化祭の準備を急ごうと考えた。だから3月に文化の役員でも別にかまわない、といっていた山本真基子氏を文化委員長に決め、文化祭のテーマを生徒から公募した。3年生の全クラス強制参加はすでに決まり、私もたびたびそれを口にしてきたので、それによる混乱は比較的少なくて済んだ。
 この時点で私の頭の中には平成3〜4年度の文化祭の運営システムがモデルとしてあった。まず文化祭の計画・立案の一部分を一般の生徒に任せよう、といったものである。そのため文化委員とは別に文化祭実行委員を改めて生徒に募集し、生徒会企画や装飾企画、バンド企画などの手助けをしてもらった。また執行局の中でも文化祭の大まかな動きは2・3年の一部文化の役員と書記の永田誉也氏、そして前述した鍋島氏や堀川氏などの一部のみで予め話し合い、その後執行局に報告するという形をとって作業の迅速化を図った。いずれは執行局が動かずとも、文化の役員とこれら実行委員会の係の生徒だけで文化祭が成立し、後の生徒に伝統として受け継がれるようになればいいな、とも考えた。これは過去の文化祭の考え方を発展したものである。
 次にクラスでは決して取り扱ってもらえない個人芸などの企画を「グループ企画」として復活させることにした。これは以前から私の頭の中で考えられていた構想で、またこの年には木山信明氏や加来佑一郎氏など、クラスではできない個人企画のアイデアを持ち、しかも本人自身が相当のやる気を持っているという人が多くいたので、実現したものである。
 文化祭実行委員に関する考えは、なかなかほかの人々に伝わらなかったようで、これは失敗だったといって良い。グループ企画については後で内容を述べるが、大成功だった。この係の文化祭実行委員の代表である松尾圭祐氏を中心にうまく機能し、特にクラシックコンサートは、この年以降の文化祭の柱となり得る企画であるといえた。
 一方、自分は5月頃からできるだけ表立っては活動しないことにし、できるだけ2年生の役員に実地体験してもらいたいと考え、それを実行に移した。これは結果としてうまくいったようである。私はこの年の生徒会企画の目玉である、空き缶で作る凱旋門の作成や全体の作業進行などの補助に協力した。その凱旋門は何かひとつの色に限定するのは集めるときに難しいし、色を塗装するのは環境に良くないと言うことで虹色の凱旋門を作ることになった。それでも缶を集めることはなかなか難しく、文化副委員長である菊池和彦氏が中心となり、結局2ヶ月以上の製作時間を要した。
 この年の文化祭に多大な影響を与えたものが福岡市にある筑前高校への文化祭見学による、生徒会執行局のカルチャーショックであった。まず雰囲気が違う。生徒が文化祭を存分に楽しんでいるのだ。これに比べたら東筑高校のそれはどちらかといえば無気力・義務的である。文化部の企画力や活気も違うし、外観の装飾も文化祭という雰囲気を醸し出している。何よりも予算が違う。東筑の2倍強(135万円)だ。これでは話にならない。見学にいった私たち生徒会役員は、外装や案内板など、まねができるものはまねしていこうと考えた。今から考えると、本当に貴重な経験である。
 私が一番気になったことは、文化祭終了後のアンケートと各参加団体への予算の分配である。特に予算の分配が一番の問題である。この年の文化祭予算は62万円。これは筑前高校の文化祭予算の40%ほどである。昨年度より5万円増えたのだが、もちろん足りるわけがない。その中で文化部に20万円ほどの予算が渡されるわけだが、文化部の中にはこの予算を普段の活動の補助費と勘違いしている部がいたり、文化祭のために何かをすると言うよりはその後に控えているコンクールのための練習のついでとしてでしか文化祭をとらえていない部もいる。そのような部活動と文化祭のためだけに何かを行おうとがんばっている部活動とを同じ条件にしてはいけないと私は感じた。私はやる気さえあれば運動系部活動でも文化祭に参加してもいいとさえ思っているのだ。



7.平成9年、努力と結果の文化祭2・内容と反省


 平成9年度文化祭は7月13日に開かれた。3年生の全クラス強制参加やグループ参加の実施によって、参加団体数は史上最多となり、26のクラス、19の部活動・委員会・クラブ、そして8つのバンドと4つのグループ参加企画が文化祭に参加した。詳細は資料集11ページの表15に書くことにして、私としてはまずパンフレットには多く書かれなかったが、文化祭のために尽力してくれた方々の企画について述べてみたいと思う。
 まずは生徒会企画である。実はこの年の文化祭、正式に生徒会企画だと言い切れるのは空き缶の凱旋門企画(それまでの生徒会企画という名称から考えると、『全体企画』という名がふさわしいものかもしれない)そしてミステリーものの企画だけであろう。パンフレットにはほかに2企画ほど書かれてはいるが、これらのほとんどはほぼ個人企画だといえるものである。まずは環境に関するビデオの上映、これは書記の永田氏がほとんど個人制作したものである。そして科学に関する実験企画、これは前述した鍋島氏が提案したもので、本来、これが正式な生徒会企画になるはずであったが、結果的にはかれ一人きりに任せてしまうということになった。これらの出来はなかなか良く、特に永田氏の作ったビデオに関しては先生方から生徒まで実に幅広い支持を集めた。
 次にグループ企画である。まずパンフレットに書かれなかった、校内放送のDJ企画から述べなければなるまい。これは前述した堀川氏が提案していたもので、当日には放送委員会の企画と合同で執り行うこととなった。その内容はとても良いもので質も高かったのだが、いかんせん東筑高校の放送設備は聞こえにくく、その結果、あまり目立たないものとなってしまった。それから木山氏や熊澤洋子氏が提案したクラシックコンサート。その演奏の出来もさることながら、当日配られたパンフレットも非常に凝ったもので、おそらく今後の文化祭の目玉企画になるべきインパクトを持っていた。
 そして加来氏と澄友浩氏が行った軽演劇、要するにコントであるが、これに関しては当初その開催自体がかなり危ぶまれた。理由は「教育でない、むやみに人を傷つける危険性がある」と様々。台本のチェックまで入れられ、ようやく開催できたものだ。その結果は大成功。本番の受けの良さに関していえば、後述する3年物理クラスのエアホッケーに勝るとも劣らぬ、東筑文化祭史上、最高の企画のひとつであったといえる。これらの計画・実行に関しては、グループ参加担当の文化祭実行委員の努力なしには、もちろん成立し得なかったものであるといえるだろう。
コラム −平成9年度文化祭うちあけ話−
 グループ企画はもちろん、ボツになったものもあった。それは「コムロギャルソン」とかいう企画名の、要するに高校のアイドルコンテストのようなものだ。当然、先生方によってハネられた。
 装飾企画であるが、確かに東筑高校らしからぬ良さであったが、窓に張った色セロファン以外は筑前高校の文化祭で見たもののパクりである。良い企画は参考にすべきだと思ったからだ。
 さて、クラス企画であるが、グループ参加企画の熱意に押されたのか、とても質の向上した企画が多かった。まずは3年物理クラスが作成したエアホッケーゲーム。これは昨年の文化祭で「イライラ棒」を作成した方々が中心となって作り上げたものだ。当然のごとく質・評判ともに一番であった。次に2年生、この中では2−2による自主制作によるビデオ上映、そして2−7による疑似プリクラの作成が特に目を引いた。
 3年生の企画群は、基本的に教科などに沿った作品を作ろうということになっていたので、あまり面白みのないものになりはしないかとはらはらしていたが、3−8による童話の英語訳などは見て楽しめるものとなり、生物クラスの展示も顕微鏡などを見て体験でき、ビジュアル的にもなかなか良いものであった。1年生の環境に関する企画も1年目のそれに比べると、先生方が要領をつかめたらしく、それなりの良い企画が生まれている。
 部活動はそれなりの努力が前年度よりも感じられるようになった。その中で新聞部に関しては私自身から環境、特に堀川に関する調査を依頼されたため、部長の奥田氏を始め、多くの部員に前年度以上の苦労をさせてしまった。そのほかの部に関しても。環境に関するテーマを取り上げたものが多かったのが特徴であろうか。
 この年の文化祭がそれまでの数年間の文化祭と差を開いた(と、思わせた)一番大きな要素は内装企画の充実である。まずそれぞれのクラスに、各教室の廊下の窓ガラスに色セロハンで様々な絵を作させたこと、そして教室や廊下の装飾を新聞紙や広告紙、色紙などを用いて必ず飾っておくことを半ば義務づけたことだ。これだけで殺風景だった教室群もずいぶん違って見える。それから階段にデパートのそれのように各企画の広告を貼り付けたこと、そして玄関においた校舎の模型なども企画の広報や文化祭の雰囲気作りとして、とても良かった。内装に関しては東筑の文化祭史上最高と言い切っても良い。
 さて、一番苦労し、一番見栄えの良かった企画について述べることにしよう。それはいうまでもなく、空き缶による虹色の凱旋門である。缶集めを生徒会役員はもちろんのこと、各クラスに100個ずつぐらい割り当てた。それでもなかなか集まらない。作業も遅々として進まなかった。このときに永瀬健氏をはじめとした文化祭実行委員の装飾・クラス担当係の方々がいなかったら、この企画は決して完成しなかったことだろう。
 様々な苦労の末完成した凱旋門は、自然に文化祭の象徴的存在となった。ともかく、この平成9年の文化祭はFBSにも報道されたように、やっと他校の生徒に見せても恥ずかしくないような、東筑文化史に重要な一歩を記した有数の文化祭となったといえる。ではなぜにこのような文化祭となり得たのだろうか。
 この年の文化祭に関する記述をもう一度読み直してみるとそれが良くわかる。それ以前の文章から考えるとうるさいほど、登場人物に具体的な人名が多い。私もあえて意識して書いたのであるが、これはつまり、各企画ごとに核となり得る人物がこの年は特に豊富であったのだ。たとえばグループ企画では前述していなかったが、生徒会会計でもある中西康治氏が飛行機、アドバルーン企画に携わった。これらグループ企画は誰か中心人物がいなければ完成し得ないものであることは間違いない。良いクラス企画に関しても平成8年度の「イライラ棒」などを例にとると良くわかる。前述したが、一人で複数の仕事を完遂することは、たいていの人間の場合、まして高校生ともなると、ほぼ間違いなく無理である。しかし協力してくれる人がいれば、一人では不可能なことでも可能となり得る。それはこの文化祭が証明している。この平成9年度文化祭は、まさに全員で作り上げた文化祭なのだ。



8.資料整理、そして卒業

 文化祭終了後に私が行ったことは、それまで完全に放置されていた生徒会資料の整理整頓とこの東筑高校文化祭史の作成、それから後輩へのアドバイスである。整理整頓は困難をきわめた。何しろ様々な年の資料が混在していて、どれが何だかわからず困ったこともあった。結局すべての資料が片づいたのは受験期のまっただ中、11月のことであった。受験という試練への現実逃避があったのかもしれない。しかし、これは誰かがいずれはやらなければならない仕事であることは間違いないはずだ。そして、こういった何の役に立つのかわからない(と、短慮な人は考える)仕事をやる人は、ここ数年には自分のほか幾人もいないはずである。
 私はこの文章の第1・2部を3月の卒業式の日に完成させた。本来、この文章は各年ごとの文化行事を、文化部・運動部の活躍とともに書きつづっていくという計画であった。実際いくつかの記述も試行的に行った。しかし、結果そのようなものとしては完成しなかったわけである。このような読みづらい文章になってしまった主な原因は、ひとえにこの文章の主旨を「後輩育成」にしてしまったことであろう。この文章、妙に説明臭い。その代わり、全部読んでいただければ、生徒会執行局に必要なものが何であるのか、ということの答えがその人なりに自ずと見えてくると思う。
 計画変更以前から、私は自分の知識、考え方を後継者に少しでも受け継いでもらうように努力した。それは平成9年度役員にだけでなく、平成10年度の役員である文化副委員長の重住淳一氏などにも及んでいる。これは私がひとえに世話焼きであり、人付き合いを好むからであろうが、一応目的意識は持ったつもりである。
 私は平成3年度時点の東筑生徒会を目標としていた。今の生徒会執行局に足りないものは、外部から執行局の活動を支えてくれるOBである。平成3年度、またはその前後の生徒会執行局は縦のつながりがしっかりとしたものであったという。私のように独力ですべてを決断し、試行錯誤を繰り返しながら得ることに比べれば、もっとスムーズに、より多くのことを行うことができたであろう。私は生徒会活動を行いながら、私に手順を教えてくれる人がいれば、と常に考えていた。私がOBとなったら自分がその役になればいい、そう思った。そして卒業を迎えたわけである。



9.東筑百年史、内容評価


 確か、五月ぐらいのことであろうか、私の家に小包が送られてきた。「東筑百年史」である。どうやら、平成9年度卒業生と現役の2,3年生全ての生徒に送られているものらしい。校納金で料金は前払いされているというから、結構ふざけている。とはいえ、私はどうせ買うつもりではあったのだが。この文章の1・2部、そして第3部の大半はすでに完成していたので、私は密かな目標としていた「東筑百年史」にかなりの期待を持ちつつ、読み始めた。
コラム −東筑高校「正史」について−
 東筑高校は、戦前の段階からの文献資料を数多く残している。これら資料や先輩方への取材から、これまで5つの公式歴史書が作られた。
 私が一番評価するものは、もちろん「東筑八十年史」である。内容の充実性はもちろんのこと、その読みやすさもなかなか好感が持てる。
 しかし、これらを読みいつも思うことは、部活動や生徒会活動を中心とした歴史書が未だにないことだ。この文の執筆原因の一つでもある。

 読後、正直に言えば私はかなりの失望を覚えた。所詮学校・教師側の歴史であると思ってはいても、ここまでのものとは正直、思ってはいなかった。内容を有り体に言うと、「東筑八十年史」の焼き増しである。つまり、八十年史の文章をかなり借りて、目新しい文章はというと、箇条書きのような事実の羅列ばかり。活躍している部活動には、コンクールでの結果のみを掲載し、そうでない部活動への記事は全くなし。「結果を残さねば、記事として載せる意味がない」と頭ごなしにいわれているようである。
 東筑八十年史、もしくはそれ以前の歴史書には、まだ生徒の息づかいや、その当時の学校というものが何となく理解できた。たとえば東筑六十周年記念誌では、卒業した先輩方が在校当時の思い出を寄稿するという形を取り、七十周年記念誌では卒業生や在校生の対談が載せられていた。八十年史では今までの歴史の総括的な評価を編纂し、九十周年記念写真集ではそれをビジュアル的にまとめた。形こそ違えそこに感じられるのは、作成者の創意工夫、または思い入れの強さである。
 百年史がこれら、特に八十年史に劣るように見えるのには、一応の訳がある。八十年史には一応、それ専属の編集委員がついていたようで、編集委員もなく、東筑OBの先生方のみが仕事の合間を縫って行った百年史の編集作業に比べたら、多少の見劣りがしても仕方ないことだと思う。それでも、部活動や生徒会役員に一言の協力も要請しない編纂作業には、納得しがたい思いがある。
 この「東筑百年史」の中で、私自身がはずすことのできない変更点は、文化祭に関する記事を載せていることである。これは編纂委員の方々にたびたび私が要望していたことであり、その記事には、私的にもいろいろな思いがよぎる。だが冷静に記事を読むと、昭和60年代からの文化祭からしか紹介していないことや、その記事もテーマの羅列のみにとどめていること。そして記載している場所が「思い出の行事」(体育祭や修学旅行、定期野球大会などが載っているところ)という部分ではなく、「校友会・生徒会」(生徒会や同窓会の活動が載っているところ)という部分であることに相当な不満を覚えた。
 文化祭は、生徒の行事であるという認識を受けていないのだろうか。文化祭は多くの生徒に取り、「思い出」となり得ないものなのだろうか。この「東筑百年史」に関する私の論調が必要以上に辛辣なのは、ここに原因があるといってよい。私は、自分が書くこの文章を東筑に関する、いわゆる「正史」とは決定的に対立するような立場に立たせることにした。今までの歴史書では書かない部分に重点的に力を入れることにした。結果、この文章はかなりあくの強いものになってしまったのである。



10.百周年記念文化祭

 1998年という年は、東筑高校にとっていろいろと忙しい年であった。野球部の選抜野球大会への出場、百周年記念行事、各地の同窓会の開催などがあり、部活動も生徒会も変則的な活動をとらざるを得なかった。結果として、この年の文化祭はいろいろな行事の忙しさに邪魔されたような格好となった。
 この年は前年度の生徒会会則改正案が本格的に適用される年であり、3年生の生徒会役員の任期が従来の6月から1学期終了までのびることとなった。つまり、3年生の方々は最後に文化祭に携わることで、執行局の現役を引退するようになったのだ。なぜにこうしなければならなかったのか、それは第3部で述べた「予餞会」の廃止に原因がある。
 予餞会の廃止に伴い、生徒会役員、特に文化委員長は何の訓練もないまま、文化祭の計画・実行に携わることとなった。たとえば、平成3年度の高口氏のように、T年生の頃から文化祭の仕事に携わっていれば、いろいろな問題にもそれ相応に対処していけるだろう。しかし、それほど都合のいいことは何度も起こる話ではない。生徒会補佐制度にしても、その年に生徒会補佐になる人間がひとりもいなかったら、何の効果もない。
 いっそのこと、ほかの多くの高校が行っているように、文化祭も3年の力を借りようと考えたのだ。それはクラス企画ばかりではなく、執行局それ自体にも当てはまることであった。この試みは、どうやらこの年の文化祭で威力を発揮したようだ。
 この年の文化祭は、計画面で3年文化委員長の山本氏、実行段階では文化副委員長の菊池氏と次期文化副委員長の重住氏が中心となって活動していたようだ。文化祭の変化を第三者的にここで紹介しようと思う。
 昨年度の永田氏の路線を引き継ぎこの年に始まった、文化祭開会式前の各企画のPRビデオ紹介は、多少の問題を乗り越えて順調に上映された。この成功には、昨年度にビデオ企画をクラスで行った文化副委員長の菊池氏や、元図書委員長の菊池正義氏の協力が大きい。クラス企画も3年生の噴水の作成などの企画を中心として、多少の手抜きも見られる企画もあったが、文化祭の成長へとつなぐ路線を忠実に受け継いだ企画が多かったといえる。
 グループ企画は、昨年度に引き続き、クラシックコンサートが行われた。どうやら、この企画は恒例のものへとなっていくようだ。そして、98期の掛橋氏によるマジック披露も文化祭の盛り上がりに十分寄与したといえる。どちらかというと、安定志向が強くなった文化祭であったと感じるが、ビデオ企画などに費やされた労力は大きいものであり、その成果は十分に開花していたと私は確信する。


11.役割を受け継ぐもの、想いを受け継ぐもの


 執行局現役当時の私が行ったことは、大きく分けて3つあった。ひとつは文化祭の取り仕切り、ひとつは生徒総会・生徒会会則の改正に関する活動、そしてもうひとつはこの文章、「東筑文化祭史」の作成と生徒会資料の整理整頓である。このうちの前者2つは、卒業してからは他人にゆだねることになる仕事である。私が卒業してから、これら活動はどのようになったのかを述べてみたいと思う。
 生徒総会に関しての活動は、まあ当然の結果というべきか、生徒会長の仕事となった。森本氏(平成9年度会長)には前々から私の基本方針を述べてあり、また彼も総会の活発化に関する独自の意見を持っていた。田坂守氏(平成10年度会長)は彼と協議しながら現行会則の問題点を是正するために、ある時はプリントなどを用意して役員に問題を提起した。その内容は、私が見落としていた部分をも含め多くの問題を述べており、私としては頭の下がるばかりである。森本・田坂の両氏は1年生の時から執行局補佐、つまり執行局の見習いとなっていたので、以前の方針とこれからの変更点がわかりやすかったことであろうと思う。生徒総会のシステムは試行錯誤を繰り返しながら、よりよい方向へと模索中である。
 文化祭のシステムは平成11年度現在まで、私が平成9年に行ったものとあまり変わりはない。さしあたって変えていく必要がないといえるのだろう。しかし、これまでの問題点も同時に受け継がれていることが何とも歯がゆい限りである。文化祭のリーダーは前述した菊池氏から、100周年文化祭のサブリーダー的存在であった重住氏に代わった。
 重住氏は、私の生徒会に対する考え方をもっとも色濃く受け継いでいる人物といえる。いわば、直属の「弟子」というべきだろうか。彼は、私の歴史を尊重する立場からの文化祭・生徒会運営を忠実に受け継ぎ、資料作成や企画の実行に関して言えば、私を上回る仕事をこなしている。彼の作成した資料をいくつかもっているが、見事にまとまっており、同時に彼自身の考え方をも、その資料内に織り交ぜている。多少、他人との協調性に関する部分の主張が欠けているように思えるが、私の為し得なかったことを為そうとしている彼らの姿を見ると、自分自身の現役時代をしきりに反省せざるを得ない。
 私が望んでいた、「想いの継承」が重住・田坂の両氏に為されているとすれば、私の活動は当面、成功したといえる。しかし、その最終的な結果は彼らの卒業後にならないと分からない。なぜなら、彼自身の文化活動に対する想いが、同じように後輩に継承されてこそ、本当の意味での伝統継承がなされていると考えるからである。想いは受け継がれてこそ、意味を生じいつかは「伝統」となる。それは決してひとりのものによって作り出されるべきではなく、多くの人々の手を経なければ洗練されたものとはならないからだ。



12.生徒会活動の分岐点


 平成11年度の文化祭は、昨年度より良質のクラス企画や内装企画が目立った。物理系クラス対抗創作ホバークラフトコンテストは、これからのクラスマッチの在り方に一石を投じたものであったといえるし、企画自体も見栄えの良さと努力が十分に現れたものだった。内装企画は、階段に貼られた絵の高い完成度に驚かされた。PRビデオ紹介も昨年度の反省をふまえ、OBの力も借り、よりよいものへと仕上がった。四年前からは考えられようもない文化祭に、私は安心感を覚える。しかし、私的なことを言えば、毎年多少の変化・刺激がなければ、文化祭は単調なものへとなってしまうだろう。問題点の改善とともに新たな企画へと挑戦して欲しいな、と私は思う。
 多少この文章自体の存在を否定するような言い方をするが、文章から得られる知識だけを、鵜呑みにしてはならない。先輩から得た知識だけを、唯一の信条としてはならない。ここで書かれている教訓も参考にして欲しいが、自分自身が胸に秘めている主張を、是非大事にして欲しい。そこには必ず、私が書き損じた常道が含まれていると思うからだ。
 平成12年以降の東筑文化祭を推察してみると、どうしても悪い方向に向かっているように思えてしまう。その理由として平成12年度に関して言えば、次の3点が挙げられる。
  1. .3年の生徒会役員に執行局補佐がいない。(経験が浅い)
  2. .3年の生徒会長と文化委員長に求心力がない。
  3. .文化祭に方向性がない。
 平成11年度現在の執行局員は、一部の相互不理解をのぞけば、どちらかというととても実行力のある方だ。風紀委員長の塩田早恵氏など、リーダーシップをとれる人間もいるし、同じく風紀副委員長の森明慧氏のような実務系の人間も多い。ただ、そこに独創的な考えを生徒会活動に発揮してくれるような、一見厄介者とも思える人物が見あたらないだけだ。組織が団結することは、確かに重要だ。しかし、そこで慣れが生まれてはいけないし、保守的になってもいけない。
コラム −私の年の執行局の場合−
 では、私が文化委員長であった年の執行局はどうだったかというと、かなりまとまりがなく、一部の人間しか動かないといった状態であった。
 しかし、私や中西氏、永田氏や小宮啓吾氏など、率先して活動する人間がいた(半ば義務的にやっていた人もいたし、私のように趣味でやっている人もいたが)結果、何とか乗り切ることが出来た。ここで中西氏の名言を紹介しよう。
 「男は黙って四捨五入!」(笑)
 彼は、会計職であったのだが、、、

 本当のことを言えば、文化祭・生徒会活動に自分なりの深い考えを持つ、企画力のある人間(しかも私のように、細かいことにちゃらんぽらんにならない人物)がここで必要なのだ。生徒会執行局とは、行事をこなすだけの組織ではないということを思い出して欲しい。今までのシステムをうち破るだけの独創性を、時代は望んでいるように感じる。
 私から始まった、「文化祭・生徒会をより良くしていこう」という一種の改革運動は、重住・田坂両氏の卒業をもって終了する。私はここで生徒会活動の歴史的な分岐点を迎えるように思う。その次の代の生徒会執行局は、どうやら両氏に対するアンチテーゼを生徒会活動の根幹にもっているように(こうは書いてみたが、これ自体は決して悪いことではないことを付け加えておく)感じる。私は、彼らの学年とは学校生活の時間を共有していない。よって彼らの考え方、文化活動・生徒会活動に関する理念を、私は十分に知ることが出来ない。
 たとえば、執行局員の数が多すぎるので、減らしたいと考えるものがいるとする。これは私のこれまでの方針に反するが、それが各専門委員会の独自性を強め、執行局としての新たな活動を身軽に行うためのものであるのなら、そこまで考えてのことであるなら、私はそれを評価する(しかし、現在の生徒会活動の低迷化した状況からすれば、実現・成功には甚大な努力が必要だろう)だろう。そういったことに関する、腹を割っての意見交換が出来ない以上、私は現状に漠然とした不安を持たずにいられない。私の考えが杞憂に終わればよいが、そうならないためにも、執行局員が適度の緊張感と理念をもって活動を行って欲しいと願うのだ。



おわりに


 近年、福岡県立東筑高校は一部の運動系部活動の活躍がますます盛んであり、また第120回芥川賞作家となった平野啓一郎氏の出身校としても、世間の注目を浴びている。しかしあえて私はいいたい。今、東筑高校は高校自身のアイデンティティを損失しかねない危機に瀕している。それはたとえば、完全週休2日制によるLHRの廃止や必修クラブ活動の廃止についてもいえる(学校行事に費やされる時間数がますますなくなるから)し、部活動の学校行事との分離(生徒が部活動に愛着を持つことがあっても、学校自体に親しみを覚えにくくなるから)についても、いえるだろう。生徒会行事は生徒の関心が薄れた時点で、隙あらばいつでもつぶされると考えて良い。普段の活動が目立たない多くの文化部は、これからますます苦境に立たされることであろう。
 私は学校と地域との隔離についても心配している。私たちは学校にいる時間、あるいは部活動にいる時間があまりにも長くなってしまったせいか、地域との交流またはそれらしきものを、過去に先輩方が行っていたようにはできなくなってしまった。清掃奉仕活動はそれをくい止める好例といえるが、残念ながら一部の生徒のみの参加にとどまっている。この事態をどうやって生徒会執行局は考えていけばいいのか、そして文化祭は、文化部はどこに可能性を見いだしていけばいいのか。その答えは私でなく、これから生まれくるであろう東筑高校の生徒達が考えていく課題である。まさに健闘を祈る、と言うほかない。
 さて、東筑高校の文化、特に生徒会活動を中心とした文化活動についていろいろと述べてきたわけだが、資料の収集不足や時間の制約などの都合によって、記述が足りないところや曖昧な部分が多いことだと思う。これからも一応こういった文章を書いた責任上、細々とではあるが訂正、加筆できるところがあれば、逐次変えていきたいと思う。千利休の提唱した、「未完の美」を追求するわび茶の精神ではないが、「日々新たなり」と言えるものこそが、真の文化といえるのではないだろうか、いや、そう信じたいからこそ、私はこの文章をとりあえずの中間報告とさせてもらう。
 結局のところ、私は後輩からみればうるさい先輩であるかもしれないし、これからもそうであろう。ただ、私が東筑生徒会の将来を心配し、これから育つであろう、後輩達の手助けになっていければ、と性懲りもなく思っていたりもしていることだけは間違いない。これはこれからも東筑高校OBとして変わらず持ち続ける精神のひとつ、あえていうならば「東筑一本松精神」といっても良いであろう。

以降の「東筑文化祭の盛衰とその原因」(愛称・東筑高校文化祭史)は、インターネット版で随時提供します。

 URL:http://www.rcedu.kyushu-u.ac.jp/~titan/kadai.html

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