第3部改訂版目次
《昭和60年代から平成7年までの東筑文化祭史》
第3部
1.他校の文化祭との比較による文化祭の発展
昭和60年代、東筑高校は明らかに他校の文化祭と比べて立ち遅れていた。その原因については今までの段階でいろいろと述べてきたから、あえて多くはいわないことにする。様々な課題の中で昭和60年代に行われた、「文化祭改革」で一番注目すべきところは、他校の文化祭の偵察を頻繁に行い、そこから長所や短所を導き出した点である。では、それらはどのようにして行われていったのであろうか。
昭和60年から61年、文化祭は「祭り」的な要素を大幅に増していった。各部活動もクラス参加の影響を受け、ほんの一部ではあるが、今までと違った、新たな試みを考え始めた。一方クラス参加の方は、当初の熱気をほとんど失い、○×クイズやフィーリングカップル、クイズダービーなど、簡単に(数日間、または1日だけの準備で)できるものがすっかり多くなり、東筑文化祭についてのアンケートの中で一般の来校者の約60パーセントが否定的な感想をいうような(ふつう、文化祭に来る人は生徒の父兄や友達が中心なのだから、甘めの評価しかしないはずである)文化祭になってしまった。生徒会執行局はこのことに対して相当の危機感を持ち始めた。昭和60年度の文化祭はそんな雰囲気の中で行われたのだ。
この年の文化祭は、外部の人からは決して良い
コラム ー楽しい資料の眺め方?ー
文化祭資料、特に文化委員長などがまとめたノートにはまじめにまとめているものもあれば、何ともユーモラスなものまである。
代表的なものとして、平成3年度の高口文化委員長がまとめた「文化祭ノート」などがある。おもしろいものとして、昭和60年度の市丸文化委員長が書いた「ノート」には、「何で私が文化委員長なん?高木君のくそったれ?!」なんて言う文句がその冒頭に書かれているのだ。 |
評価はいただけなかった。「画一化しすぎて、奇抜なものがない」とか、「まじめなことをやるクラスがない」というような意見もあった。しかし、生徒からみた評価は悪くなく、比較的自由な雰囲気の中で行われたようだ。詳しくは表12(資料集8ページ)をみてほしい。市丸美紀文化委員長(当時)は60年文化祭の結果についてこう語っている。「文化系の部にとっては文化祭は年に1回の発表の場であるので、なるべく多くの人々にその成果をみてもらいたいと思うのは当然である。そのためにはある程度であるがマスコミ的派手さは必要ではないだろうか」このマスコミ的な派手さと文化的な色合いとをどこで調整すればよいかということが、これ以降の文化委員長が持つ悩みの種のひとつとなる。
昭和61年の文化祭新聞をみてみよう。この中には他校の文化祭の見聞録や、現在決定している各文化部・クラスの企画紹介などを掲載している。たとえば修猷館高校や小倉高校の文化祭を見学し、そこで行われている企画などを紹介している。生徒がそれを参考にしてくれれば、という期待があったのだろう。手間暇を存分にかけた結果、この年の文化祭は昨年よりも良い評価を受けることとなった。少し内容を紹介してみよう。
昭和61年文化祭は、9月6日〜7日にかけて開催された。クラス参加は1年8、2年5の計13クラス、パンフレットのほかにイラストマップが作られ、インフォメーションセンターも開設した。祭り的な要素がさらに強くなり、書道部や美術部アニメ研究会、吹奏楽部などが人気を集めたようだ。脇山達夫文化委員長(当時)は結果についてこう語っている。「想像力を発揮できた。多くの生徒にとって、みる文化祭よりやる文化祭となった。 (中略) やはり何かに青春をぶつけ、その何かを文化祭で表現することは充実感を覚え、良い経験となるのではないか。」この年で生まれた文化祭改革への流れは数年ものあいだ、着実に受け継がれていくことになる。
2.生徒会執行局と文化部の低迷
文化祭の改革が叫ばれる一方、肝心の生徒会が持つ行動力は失われていった。昭和59年度の生徒会長である木本万裕氏は生徒会の不備な点を次のふたつであると指摘している。
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.広報活動が活発でないこと。
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.生徒会の諸機関がうまく活用されていないこと。
全くもってその通りである。生徒会における、過去そして現在の問題の機能的要因は大まかに分けるとこのふたつに絞られる。では彼はどのような改善点があるといったのか、それらは次の4点である。
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.会の諸々の機関を規約に従って開く。
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.生徒会会報を制作するなど、会の動きを明確にする。
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.生徒一人一人の意見を聞くために投書箱を設置する。
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.生徒会主催のリクリエーションを増やす。
1.の効果についてはともかくとして、他については異論がないだろう。ただし、彼の改革はわずかな収穫のみを得るにとどまった。理由は至って簡単だ。彼がこれだけの膨大な仕事をひとりでこなそうとしたからだ。生徒会の今後の方針としてこれらを打ち出してみるのは悪くないが、何の手本もなく、一度にこれだけの計画を実行に移すのは、進学校である東筑高校において不可能といって良い。
このように、高校生徒会史の中で「公約」が失敗した場合、そのだいたいの原因は仕事の過負担にある。どうしても、複数の計画を実行に移したい場合は、各計画ごとに、そのことだけに情熱を燃やすことのできる担当官をつけておくことが不可欠だ。もう一度いうが、ひとりが複数の仕事を全力で実行することは、基本的に無理なのだ。
生徒会長という役職は選挙によって選ばれることが当然であった、少なくとも昔の生徒会役員はそう思っていただろう。しかしその原則は昭和50年代の段階ですでに崩れ始めていたのだ。「東筑高校新聞」昭和55年度の生徒会長選挙についての記述中に、「例年になく、3人もの立候補者があったので・・・」と書かれていることから考えても、この時期にはすでに生徒会長の立候補者が擁立しにくい状況にあったようだ。他の生徒会役員についても、探しにくかったであろうことは容易に想像できる。しかし、昭和56年度の同新聞によれば、「8人の執行局員を探すのに1ヶ月かかった」(石橋格生徒会長・当時)と語っていることから考えると、現在に比べたら問題は深刻でないようにも思える。
文化部全般にも活発さがみられないようになった。表1(資料集1ページ目、一番上)をみると良くわかるだろうと思うが、昭和50年代前半を境に、文化部への予算配分額の増加が頭打ちになっている。これについての原因は第2部においてすでに記述してある通りである。文化の成長は自ずからのびてくるものではなく、必ず育てていかなければのびないものなのだ。
3.『文武両道』が物語る東筑の歴史
「文武両道」という言葉がついに東筑高校の校是となった。この言葉が本来校是でなかったことは前にも述べてきたと思うが、昭和60年代までは「公明和楽」という言葉が半ば校是のように叫ばれていたようだ。この言葉は終戦直後の生徒の気持ちをまとめるために、新たな目標として掲げられたものだ。やはり言葉が堅すぎたのだろうか、昭和60年に高木富士男生徒会長(当時)が演説に使ったのを最後にして、生徒会資料の中にこの言葉がでてくることはなくなった。ではそれに代わる言葉がなぜ「文武両道」であったのか、これに対する答えは東筑が歩んできたこれまでの歴史が直接絡んでいる。
東筑の前半世紀の歴史はそのまま「質実剛健」の歴史であった。猛々しいその気風から様々な問題も多かったが、発展も著しかった。戦後20年間の歴史は「公明和楽」で言い換えられるだろう。男女共学を境に協調性が生まれてきた。文武両道を生み出した原動力は、その後急成長した東筑高校の進学校化にある。本来体育系の学校であった東筑が新たな目標、つまり進学に対してどういう姿勢で臨むか、その精神的な支えとして注目された言葉が文武両道である。昭和30年代以降、北九州地域に相次いで建てられた公民館は、本来文化的に遅れていた同地域の文化度を高める目的があり、この校是にも文化の発展を願う高校の思いがあったのかもしれないが、現在は進学校化と一部の運動系部活動の活躍をたたえる言葉としてでしか役立っていない。文化の発展を見いだすためには新たな校是が必要なのではないかと思う。
4.文化祭を盛り上げるための人的要因
昭和62年の生徒会改選時、境邦宏前生徒会長(当時)は自分の時期の生徒会について、「あまり自分達でも満足できるものではなかった」としながらも、「文化祭については大きく改善を行い、生徒全体での参加意識を高めた」と評価している。自己評価というものは評価が甘めになりがちだが、それでも大きく嘘はつけない。まして、このコメントは「東筑高校新聞」に記載され、生徒全員に配布されたものだ。この言葉にはかなりの信用を置くべきだと思う。
「文化祭について大きく改善を行った」とあるが、いったい何が変わったのだろうか。これについては昭和62年度文化祭の資料が一番詳細に書かれているので、こちらから考えてみよう。9月5〜6日に「限りなきPersonality」というテーマで行われたこの文化祭は、初めて「中庭ステージ」が実施された年で、現在生徒会室に残されている谷尾憲一文化委員長(当時)の手記には、この年の文化祭についての細密な記録がつづってある。この資料を読んでみよう。
これには文化祭の各部門別の日程・費用・頼んだ業者・反省などが書かれていて、その詳しさにただ頭が下がるばかりだが、今までの文化祭との違いが良くわかってくる。事前の計画や係り別の分担、そして十分なデータ収集と事後の反省が行われ、後の文化祭に確実にプラスになるように行っている。たとえばこの手記には部門別の反省事項が書かれている。バンドについては ・ステージの図を書いて器具配置を明確にすべき、とか ・司会を設けるべきという風に書かれている。また当日の外来者数もカウントされている。(ちなみにこの年の外来者数は1899人)ここまでやらなくても良いのではないか、というくらいの記述が文化祭改革の一環ではなかったのだろうか。
この後「中庭ステージ」は平成元年までの3年間続いたのだが、「文化祭改革」というにふさわしいであろうこの改革も、平成元年を一区切りとして考えるべきだろう。以前の執行局の文化祭に対する態度に比べれば、ずいぶんと能動的になり、その結果文化祭の質も向上した。何よりも文化祭のシステム的な改革は、現在まで続く貴重な遺産となっている。しかし、生徒全体の文化祭に対する考えはそう簡単に変わるものではなく、(これは校風についてもいえることである)この後、代々の文化委員長の課題として、「文化祭を盛り上がらせるような雰囲気を作り上げること」が持ち上がることとなる。
これに対する根本的な改善策を歴代の文化委員長は探し求めてきた。ひたすら自分の業務に徹することで、文化祭の可能性を引き出そうという考え方もあったようだ。また自分から盛り上がっていこうという姿勢もみられ、そういった人たちの代表格として、昭和63年度文化委員長の日高幸彦氏が挙げられる。彼は後々の文化委員長からはかなり煙たがれるほど、文化祭への情熱を持っていた。このような場合、彼に乗じて周りの方も盛り上がってくれればよいのだが、残念ながらそういった動きは目立って起こらなかった。彼は卒業後もたびたび生徒会を訪れ、さらなる文化祭の発展に貢献しようとしたが、これには周りの方がついていけず、文化祭は再び停滞の時期を迎える。
いつの時代にも文化祭に対してやる気を持っているものは多くいるのだと思う。ただしその真価が発揮されるのは周りの支えがあってこそ、である。個人の能力がいくら高くても、周りと調和がとれていなければその能力は後の代に受け継がれない。また、周りからそのやる気に追いついていこうという精神がみられなければ、もしくは周りを自分の盛り上がりにあわせていこうという配慮がなければ、文化祭は形式的なものに陥るだろう。これは執行局だけでなく、部活動全体にもいえることだろう。文化祭の枠を越え、東筑高校の文化がさらなる成長を遂げるためには、全体の意識向上はさけられない急務ではないだろうか。
この当時の生徒会執行局を知る重要な資料として、昭和63年4月30日に行われた生徒会執行局の宿泊研修についての資料がある。これを読むと、執行局が現在も抱える問題(個人の能力に頼ってしまい、全体として仕事をしない、等)はやはり、この当時から続いているものが多く、現在と状態はそう変わらない。その中で生徒会の意識向上を行おうとしたこの時代の生徒会執行局の行動力にはただ脱帽するばかりである。しかし、それを受け継ぐものが現れなければ、せっかくの努力も無駄になってしまうのではないだろうか。
5.予餞会の廃止と文化意識の低下
平成元年2月4日、東筑高校の文化史に多くの好影響を与えた予餞会がその歴史に1区切りをつけた。要するにこの年を最後に行われなくなったのだ。これについてのプログラムはバンド演奏や漫才など、ほぼ例年と変わらないものであったが、それはもとかくとして、ここではこの出来事が文化祭に与えた影響について述べてみようと思う。
予餞会は文化祭の予行会といっても良い。文化祭の当時の主役である2年生が運営機構についてのノウハウを学ぶのはこの会であり、予餞会なくしては完全な文化祭は執行できないといっても良い。予餞会の運営・実行の中心は生徒会執行局であり、また予餞会は文化祭に比べて生徒の意思を尊重する精神があったことから、多くの一般生徒もその運営に携わった。部活動よりもバンドや個人の曲芸の方が主体であるので、文化祭よりも生徒のニーズに応えた企画が多い。(文化祭が本来、部活動の活動発表の場であったことから考えると、これは致し方のないものなのかもしれないが)そのためもあって生徒からは人気が高く、翌年度には数多くのクラスから復活の要望があった。考えるに、予餞会は東筑文化が持つ堅苦しい雰囲気を少しでも和らげようとする前線基地であったに違いなく、これの廃止によって文化祭への意識が大幅に低下したことはきわめて当然の結果だといえよう。
予餞会はバンドのためのものであり、文化祭は文化部のためのものである、という生徒の意識は多少は変わっただろう。少なくとも、生徒会執行局は文化祭や予餞会に積極的になった。しかし一部の生徒はことさらにこれらの不備な点を指摘し、改革を叫び、かといって自分からは何もやらないという悪循環を繰り返していた。折しも北筑高校をはじめとして、多くの県立高校で課外授業を強化しようという意識が高まった頃である。予餞会は一部の生徒の批判、そして多数の生徒の無関心によって課外授業の犠牲になったといえよう。文化行事が高校全体で減少傾向にある中で、体育行事は現状維持、または補強を続けている。これはどうしてなのか。おそらく、文化活動には精神的な支えがない、もしくは育ちきっていないからではないだろうか。
体育行事には必ずといってもいいほど伝統というものができあがる。人間のその誕生時から存在する運動本能に、体育行事がうまく適応しているからだろう。人間が誰しも持っている本能に、長年のOBの方々が創意・工夫を付け加え、東筑高校の体育行事は生徒にとってなくてはならないものとなった。戦後当初から存在する仮装行列の類、または毎年作られてきた山車などはその根本には文化的なものを匂わせつつも、体育祭の中で彩りを添えている。文化祭には体育祭のような創意・工夫が受け継がれていないため、または生徒の一部のみの参加が長く続いたために体育祭のようなポジションを得られないまま、現在に至っている。
追記するが、平成元年の文化祭はその計画段階で本格的に一般生徒を参加させた、最初の年である。また募集をクラスによらない、グループ参加企画が登場した年でもある。これについては後述したいと思う。
6.文化衰退に至った諸要因
昭和から平成へと年号が変わり、東筑高校の文化にとっては全くの不遇の時代が続いた。先程述べた予餞会の廃止、平成2年に生徒総会で可決された部員のいない文化部の自動的廃止、そして文化祭の時期の変化と1日化だ。これらはどういった経過をたどり起こったのだろうか。ひいては今日の文化部や生徒会の勢いにまで影響する重要な部分であるので、丁寧に述べてみようと思う。
文化部の中に部員のいない部活、つまり「幽霊」部が初めて存在したのは、昭和50年代後半からであろうと思われる。昭和30年代には相撲部などがそれに近い状態であったが、「消滅」という形態をとっていた(名義上はやはりあったとも考えられる)ことから考えても、幽霊部とはいえないだろう。文化部に幽霊部がでてきたことは当然の流れだった。もとから各文化部の部員数は1桁〜20人以内のところがほとんどで、活動の滞っている部活も時々でてくるのだ。活動が滞った部活動に将来性を見いだすことは難しい。しだいに尻すぼみになっていき、ゆっくり幽霊部へと変化する。幽霊部から復活することも十分にあり得るが、それまで培われてきた伝統はほとんど失われる。組織が上り調子になるのは結成当初か、組織の大幅改編期のどちらかであることから考えても、文化部同士による互いの刺激がないこの時期には幽霊部は増えていく一方で、平成2年度には4部活(華道・吟詠・手芸・弁論)が幽霊部となっていた。
資料からみる限り昭和63年度に一度、これら活動していない部活動をなくしてほしいという要望があった。生徒会執行局が意図的に出したものではなく、3年生が偶発的に出した要望であるが、理由はだいたいわかる。部活動に割り当てられる予算が減ることを防ぐためである。もし幽霊部が復活してしまったら、それだけで100万近い文化部予算のうち、2から3万が確実になくなる。他の文化部はこれを防ぐために要望を出したのだろう。(これについては前述した「同好会問題」と趣旨は同じである)平成2年にこの要望は実現することとなったが前述した通り、現在新しい部活動を作ることは非常に難しく、まただからこそ、たとえ部員のいない部活動でも幽霊部といった形で残しておくのだが、それさえもなくなってしまった現在、部員の多い部活動が他の部活動を凌駕してしまい、幽霊部が増えていく兆候が続いている。これはある意味仕方のないことかもしれない。部員の少ない部活動の中には普段の部費を徴収せずに済む、活動の活発でない部活もあり、そのような部は消えてしまっても仕方ないといえよう。だが、やる気のある人々の意志を摘み取るようなことは決してしてはならない。これはどこかで断ち切らなければならない重要な問題である。
文化祭には以前から時期をずらしてはどうかという要望があり、昭和40年代には6月にしようという動きがあった。しかしこの動きは立ち消えになり、平成元年まで9月第1週に文化祭というパターンは続いてきた。この原則が変わったのは平成2年、とびうめ国体を機にしてである。
7.文化祭の受難と希望
文化祭が一学期に行われるという現行の形式になったのは、平成2年のことである。当初は7月下旬に変更されたのだが、諸事情によりさらに繰り上げられることとなった。これは文化祭にとって(ここでは文化祭全体にとってのことではなく、執行局にとってのことであるが)さらに重荷となった出来事なのだが、ここまでに至るいきさつについてをここで論じてみることにしよう。
コラム ーしたたかな人々の伝説ー
結果としてとびうめ国体を文化祭縮小のいい口実に利用された形になってしまったのだが、実はこのイベントを逆に利用した部活動もある。ボート部がそれだ。当時同好会から部に昇格したかったボート部は、地元の国体に出場するため、国体終了まで部活動としてほしいと要請し、結局現在まで部活動で居続けることとなった。現在のボート部の活躍は、このようなところに原動力があったのかもしれない。 |
本来9月第1週に文化祭が行われたことはたびたび語ってきたが、体育祭が9月の第4週にあった関係上、互いの行事の準備状況を妨害してしまいかねない状態になっていた。そんな状況下の中、平成2年にとびうめ国体が行われることとなり、その準備のため(体育館やグラウンドが、国体選手達の練習場になるため)に文化祭が9月に行えない状況となった。平成2年の文化祭は7月21〜22日に行われることとなったのである。
一連の文化祭改革はこの時期にいったんの落ち着きを見せた。なぜなら改善する点が見あたらなくなった(これは文化祭の実行組織についてのみ、いえることである)からである。東筑高校文化祭の形式については大まかに分けると、
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、戦後初期形式(部活動の発表会形式のもの)
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、昭和53年以降形式(クラス企画の多さで文化祭の質を高めようとするもの)
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、昭和61〜62年以降形式(準備組織を部門別に分け、一般生徒を計画段階で参加させるもの)
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、平成3年以降形式(クラス企画を必須にしたもの)
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、平成8〜9年形式(クラス企画やグループ参加企画に文化祭の重点を置いたもの)
という5パターンに分類できるが、これをみると平成2年という年は、3番期の運営形式が移行しつつあったときだと想像できる。
システムを転換する理由としては、第一にそれを管理する人々が不便を感じたからだと考えられる。平成2年の文化祭は1学期に行われるという現実についていけなかったといえよう。企画としては、生徒会企画として運動場に掲示されたエッシャーの壁画をはじめとして、グループ参加によるビデオ上映など目を見張るものがあったが、クラス参加が3クラスしかなかったということが他の企画の良さを帳消しにして、参加数の少ない、閑散とした文化祭だったという印象を与えたのだと思われる。ちなみに、この年の文化祭の中で今後の文化祭のあり方を考えさせられるグループ団体があった。「平成元年度1年10組有志」がそれだ。その企画自体は決してぱっとするものではないように思うが、注目すべき点はそのグループ形態である。つまり、文化祭が7月になったために少なくなった準備期間を、前年度から準備を行うことによって補おうというものだ。現在も、そしてこれからも問題になるであろう、文化祭の準備期間に関する問題を解決する手がかりとして、これは役に立つのではないかと思う。
この当時の文化祭の欠点ばかりを指摘してきたが、現在より明らかに勝っている点が3つある。まずひとつ目はこれは前にも語ったことだが、記録の精密さだ。現在生徒会室に残っている文化祭資料を年代別に分けてみると、一番多い資料は現在のものでなく、昭和62年頃から平成4年頃にかけてのものである。しかもこれら資料の中には偶然残ったものばかりでなく、明らかにこれから文化祭に携わる人々の手助けになるために作られた、ガイドブックのようなものもあるのだ。歴代の文化委員長は、それらをみて過去の反省点や改善すべきところを学ぶ。文化祭はそうした知識があればこそクオリティの高いものへと進化するのだ。
2点目として、伝統の構築が挙げられる。これは平成3年度の文化委員長である、高口友昭氏の資料からわかったことだが、この当時の文化委員会はタテの関係がしっかりとしていたようだ。この資料には平成3年の段階での、昭和63年度以降の先輩方についてのコメントが書かれている。この先輩はよく訪ねにくるとか、とてもいい人だとか、内容は様々だ。これだけコメントが書くことができるほど、先輩方と交流ができたことが文化祭にとってプラスになることはもはやいうまでもないだろう。これはひとつ目の利点と同様であるが、経験を持っている人々から直接話を聞くことの方が、文書を読むだけよりも良いだろう。また先輩方の考え方や文化祭に望むことを聞くことにより、その高校自体の「独自性」が生まれる。これが伝統となっていき、文化祭の質を落とさずに済む主要素となっていくのだ。
3番目として解放性が考えられる。つまり、文化祭実行委員会の運営を生徒会執行局だけでなく、やる気を持つ一般生徒にも開放しようという試みだ。やる気を持つ人々がそれほど立候補しなかったという点でこの計画は半ば失敗したといえるが、一般生徒が文化祭により親しみを持ていたことは、このことによる功績が少なからずあるだろう。
以上の通り、文化祭改革によって生じた多くの利点にも関わらず、文化祭のクラス企画のに参加数は減る一方であった。これは文化祭に対する生徒の意識が希薄化したともいえるだろう。このような状況下で文化祭が1日に減らされるといううわさが立ち始めた。これを防ぐために平成3年の文化祭改革は始まったのである。
8.平成3年度の文化祭改革
余談になるが、私がこのような文化祭史を書く直接の原因になったのは、この平成3年度の文化委員長である高口友昭氏が残した、文化委員長の系譜と文化祭資料群である。これらには単なる文化祭を行うための補助的なものばかり書かれているのではなく、いったいどういった心構えで文化祭に望んだのか、またはこの時期に彼らがどのようなことで悩んだのかという心情的な部分にまでふれているのだ。このような思いを受け継ぐことができる人間はこれからさきでもそうはいないだろう。おそらく自分であったらできるかもしれない、という思いで始めたのがこの文化祭史なのだ。
さて、この平成3年度の文化祭で変わったところといえば、1年のクラス参加が強制となったことであろう。クラス参加の希望の減少に伴って、文化祭は再び部活動のためだけのものになりつつあった。これに歯止めをかけるため、まず平成元年に「グループ参加企画」というものが登場した。これは現在の文化祭で行われているクラシックコンサートなど、クラスの範囲を超えて文化祭にやる気を持ったもの同士でクラスとは別にひとつの企画を行うものだ。平成元年から4年頃にかけてこの企画がクラス企画の不振を補う形となり、企画としては「こひと入山とビデオを作る人々」(団体名)など、意外と手の込んだビデオ企画が多かった。
グループ企画の活躍に反発するようにクラス企画の希望参加数は減る一方で、ついにこの平成3年にはゼロとなった。高口氏はこの状態をそのままズバリ文化祭の低迷だと言い放ち、文化祭改革のための5カ年計画というものを打ち出した。おそらく、そのスタートとして行われたのが1年生クラスの強制参加であろう。これが昭和53年以来、実に13年かけて文化委員会が下した、クラス参加問題のひとまずの結論であった。
平成3年度から行われるはずであった、文化祭改革の5カ年計画とはどのようなものであったのか、それは今は本人から語ってもらうほかわからなくなったが、平成3〜4年の文化祭資料からある程度の推測をすることができる。まず行われたのは自分の文化祭に対する思いを多くの生徒に聞かせることである。これはいわゆる「宣伝活動」とは違ったもので、むしろ「意識改革」とでも呼んだ方がいいだろう。文化祭が体育祭と同じような一大イベントであり、かつとても有意義なものだと彼は文化祭新聞として発行した、「文化祭への道」の中で熱く語っている。
また高口氏が行った業績の中で私が一番評価するのが、文化祭やそれ以外の記録である。この記録群は全部そろっていたとしたら、7冊のノートと文化祭に対するコメント集など、膨大な量になっていたはずであったが、現在確認する限りその半分も残されていない。これらの資料群の特徴は前述した通り、いうならば他人に見せるために作った日記のようなものだ。委員長を含め、バンドや装飾企画の担当によって書かれた「文化祭ノート」は恋の話もあれば、好きな歌手の話もある。もちろん文化祭の進行状況についての話も書かれており、正確な情報が書かれていることはいうまでもない。何よりも私が評価する点は、文化祭を自分がやらなければならない仕事のひとつと考えているのではなく、文化祭が今の自分の生き甲斐であり、何よりも楽しいものだと彼らは思い、それを後にノートを読んでいる人々にも伝えようという姿勢を感じたからである。
私は進学校にみられるエリート思考などに代表される、一種の精神主義を嫌う。なぜならそれは一定の価値のみを押しつけるものであって、安定を望むものにとっては心地よい保守主義であっても、そこからは何の進歩もみられないからである。彼らが後輩達に望んだ思いは、時が過ぎ今もその考え方が受け継がれていたとしたら、これも我々を縛り付ける伝統となっていただろう。しかし私はこの精神主義を認めたい。なぜならシステムの発展において、ある程度のルール(この場合は伝統)が成り立っていないとその発展が後々の進歩につながらないからだ。この話については後で詳しく記述したい。
9.生徒会組織の弱体化と文化祭の1日制
さて、平成3年度に行われた文化祭改革も中途半端な形で幕を下ろすことになる。平成4年には2年生のクラス参加も強制となって、また生徒も一つの人に一生懸命になることの楽しさをわかってくれたかのように、高度なクラス企画を催してくれるようになったが、現在の受験戦争は文化祭のさらなる発展にブレーキをかけた。文化祭の1日制がその代表的なものである。
元々文化祭が9月にあったことは何遍も述べてきた。平成3年度には校舎の窓ガラスのサッシ取り替え工事を行うため、という理由でこれまた7月に行われ、文化祭はそのまま7月に固定されることになった。この準備期間変更の影響もあってか、クラス企画の希望参加数は減る一方となっていたのだ。そこに現れたのが「週休2日制」である。東筑高校では授業時間の確保のために文化祭を1日にした、と当時の文書には書かれている。これが実際の原因であるとは誰も考えてはいなかっただろう。(実際、平成7年度の生徒総会で文化祭を2日に戻してほしいという要望に対しての先生方が出した回答の中に、『文化祭の質が低下したので1日になった』という言葉があった。)
コラム ーミュージシャン・平野啓一郎ー
「日蝕」で第120回芥川賞を受賞した平野啓一郎氏は東筑高校の92期生であることはご存じてあることと思う。実は平野氏、この平成4年度の文化祭では、なんとバンドのボーカルとして参加していたのだ。
内容はDeepPurpleというバンドのコピーバンドであったようだ。バンド演奏の話は聞いていたが、東筑高校の体育館で歌っている平野氏を想像するとなぜか楽しい。 |
この年の文化祭は、現在の文化祭と比較しても非常に高度なものであったといえる。詳しくは資料集9ページの表13を見てもらえればわかると思うが、平成元年以来のグループ企画によるビデオ上映は高度な作品であったし、空き缶で作ったパルテノン神殿、運動場での人間オセロ大会などクラス企画も充実している。このままの状態が続いたとすれば、もしかしたら平成7年に生徒総会で出された、「文化祭を1日に戻してほしい」という要望も通ったのかもしれない。しかし、先輩方が行った文化祭について手放しで良い記事が書ける時代はここまでで、ここからは表題にある通り、生徒会組織の弱体化について書くことにする。
生徒会というものはどうも一般の生徒にとってピンとこないものである。おそらく現在の大学自治会についても当てはまるのではないかと思うのだが、その活動内容がはっきりしないがために、または主催行事の減少によってその存在自体が構成員の意識の中にないという状態にあるのではないか。現に「生徒会」という言葉は本来、その高校の生徒全体に当てはまる言葉なのだが、今では生徒会執行局のみを表す言葉として受け入れられている。もちろんこれを防ぐ方法はある。
広報活動を頻繁に行うことは意識向上を図るための定石の手段だといえる。これは東筑高校においては文化委員会を中心としてよく行われ、しかしあまり長続きしなかったという苦い歴史を持っている。平成3年の桜井康雅生徒会長が毎月の会報発行を公約に掲げたように、これまでも多くの生徒会長がこの公約を掲げ続け、結論として失敗している。このいわゆる「生徒会新聞」は生徒会全体の活動を紹介するもっとも良い手段だが、専門の委員会、または役員がいないせいか、案外継続は難しいようだ。
昭和60年代の一時期、生徒総会が活発といわれた時期があった。これは硬式テニスとバドミントンの両同好会が部活動に昇格したいという要望を出し続け、そのたびに否決されていたことに起因する。否決されていた理由はたびたび語ってきたのでここでは割愛するが、この騒動が生徒会全体にとってある程度プラスであったことは間違いないだろう。話し合いにおいて大事なことのひとつとして、必ずはじめに意見を出す人が必要であることはいうまでもない。全校生徒が集まる場である生徒総会ではなかなか意見が出しにくい、という人が多くでることは半ば仕方ないのかもしれないが、このようにひとつの問題で関心を持ち、話し合う風潮が生まれればその勢いは自然と他の分野にまで及んでくるものだ。しかしこれら「同好会問題」は平成2年のボート同好会の部への昇格を最後に完全に解決している。
文化祭においてだけでなく、生徒会執行局にとってもこの平成4年という年は大きな変化の年であったように思われる。この年から平成9年まで生徒会会則が全く改正されなかったことから考えても、この年以降の生徒会役員はシステムの変革に携わるという考えを持たなくなったようだ。(たとえば文化祭の役割分担では、平成8年まで全く同じ分担方法で行われてきた)これはこれらのシステムがほぼ完成されていたわけでは決してない。平成9年度の生徒会会則改正案作成に携わった者としての立場から考えても、当時から会則に欠陥が生じていたことはいうまでもない。どうしてもそういった観点をはじめから持っていなかったのではないか、という考えを持たざるを得ない。
この平成4年を境としてどうも生徒会役員の発言力が大幅に低下したようだ。この時期に新聞部の活動が低迷化したことも、この一因であろう。新聞部は生徒会活動をはじめとして学校で行われている行事を詳しく生徒に紹介し、いうならば生徒会活動の広報係的な役割をも務めてきた。(もっとも、昭和50年代以前には生徒会活動への手厳しい批評家としての役割の方が強かったのだが)彼らの活動は戦後初期の最盛期から徐々に小さくなっていき、そして平成5年頃には一度消滅している。その後復活はしたものの、内容に関していえばPTA新聞のそれとあまり変わりがなく、生徒会活動の情報をかつてのように知ることはできなくなった。
コラム ーがんばれ!新聞部ー
新聞部は戦後初期、もっとも活気ある文化部であった。半年どころか、一ヶ月に一度の周期で新聞を出していたほどで、生徒全員から毎月いくらかの購読料をも徴収していたようだ。
そのころの文調は学校批評や生徒会執行局に対する要望、地域に関する話題やコラム、4コママンガや他校訪問まで、実に様々な企画が繰り広げられていた。現在の新聞からはとても想像できない内容であった。 |
この頃までには保健・図書の両委員会と生徒会執行局との接点が全くなくなっていた。戦後初期には、両委員会の生徒会活動への編入を含めた諸会則改正案の制定のために多く交流を行ったが、それからはそれぞれに独自の活動に専念していた。極論をいうならば、両委員会は「生徒会活動」ではなかったのである。学校業務の補助を前提とした、もう一つの生徒会執行局であったのだ。これら委員会との接点を失った生徒会執行局は、極端に言えば一般生徒とのつながりをもおろそかにしていたといえる。
生徒会役員が一般の生徒との接点を失い続けたことは、現在にまで至った生徒会活動の低迷化の大元凶である。役員の発言力が低下したことの原因の多くもここにある。平成3年度まで行われてきた文化祭の一般生徒による企画段階からの参加は、平成4年に縮小化し、翌平成5年には完全になくなった。一般生徒と接点のない執行局というものは、あってないものといわれてもおかしくはない。この点で現在までの生徒会執行局は全く不完全なものである。この状態が文化祭に大きな影響を及ぼした代表的なものが平成7年の文化祭だったのだ。これについては後述することになるだろう。
10.平成4・5年の文化祭、その功罪
ここで話を戻し、平成5年の文化祭について述べてみよう。平成5年度の文化祭はそれまでの伝統であった部分をほとんど取り払った、新しい形のものであった。しかしここでこれまでの伝統がいったん途切れたのではないか、という疑惑も生まれてくる。おそらく、この疑惑は真実であっただろう。
私が文化委員長になった平成8年にも同じ現象が起こった。これはただ私が意欲があったわけではなく、私が前任者から文化祭についてほとんど何も聞かされていなかったからである。これについての詳細は後述するが、このように新旧生徒会執行局の業務の受け継ぎがしっかりとしていなかったら、そこで今まで築き上げてきた伝統を一挙に失うことになる。この当時の生徒会役員の任期は6月までとなっており、文化祭の計画段階にはいつも新人の文化委員長が携わることになっていた。この当時の文化祭がひ弱なものであった理由はここにもあり、また6月までの期間にともに行う大きな行事がなかったことが、伝統の継承に関しての大きな障害となっていたといえよう。
さて、この年の文化祭はどのようなものであったのだろうか。企画的には前年の文化祭と比べ決して見劣りするものではなかった。クラス企画では2クラスのビデオ製作や劇、絵画やフリーマーケットも行われた。生徒会企画の「第2回東筑杯クイズ選手権」にかんしてはおそらくそれまでの生徒会企画の中でもっとも多くの生徒を巻き込んだ、非常に大がかりなものであったといえる。この企画の運営に関してはかなり綿密なスケジュールが立てられ、また文化祭の1週間前には生徒300人を巻き込んだ予選をも行っている。また、この年のバンドが体育館ではなく、3階の現・LL教室内で行われていることも平成5年度文化祭の大きな変化を克明に示していると思う。同時にクラス企画にも若干の変更が行われた。
平成4年からの1・2年のクラス企画強制参加は、システム的には現在と少し違ったものであった。1年は現在と同じである1クラス1企画の参加方式であったが、2年生は2クラスごとに企画の作成に取りかかっている。この年は様々な企画内容により、この方式でも大きな問題もなく終わったが、この2クラス1企画方式は後に様々な問題を抱えることとなる。
「2クラス1企画方式」が採用された理由は至極単純で、将来3年生がクラス企画に参加した場合生じるであろう、教室不足の問題に備えたものである。確かに現行文化祭の課題のひとつに教室不足が挙げられる。しかしこの2クラス1企画方式にはどうしてもできなかった理由があった。それは各クラス間の連携がどうしてもとりにくいということだ。特に1年生は高校に入ってたかだか3ヶ月のうちに文化祭が行われるわけで、自分のクラスをまとめることさえも大変なのに、ましてやほかのクラスの人々とひとつの企画を成功させることは、全くの負担にしかならないだろう。他の「文化祭伝統校」であれば、先輩方などの指導によって手順などがしっかりととれるようになり、成功の確率も増えるのであろうが、この東筑高校にとってはそれはあまりに無謀すぎる冒険であろう。
総合して述べると、この平成3年度から平成5年度までの文化祭が東筑高校文化祭のひとつの完成した姿であろう。そして現行の生徒会機構ではここまでしかできないという限界をも表していたのだ。私がかつて生徒会室の倉庫の掃除をしていたときに、平成5年度の文化祭で使われたであろう垂れ幕が残っていた。その年の文化祭のテーマである「気炎〜熱き心を今〜」が描かれている垂れ幕は、当時の文化委員長であった廣瀬忠昭氏が「内容は今までの文化祭中で一番充実しているはずです」とパンフレットの中で述べた自信の根拠を表していると思われてならない。文化委員長が持っていた自信が失われたとき、そのときこそが文化祭の最大の危機に結びつくであろう。
11.ひとつの企画が与える影響力
生徒会執行局は過去様々な生徒会企画を企画・実行してきた。そのほとんどは長続きすることなく、またそれほどの人気を得ることもなく消滅してきた。それらの中で例外的に生徒の人気を得て、しかもその人気が文化祭全体にまで影響を及ぼしてしまうということがあった。その代表的なものが平成6〜7年に行われた「私の秘密の技披露CONTEST」、俗にいう「かくし芸大会」である。
「かくし芸大会」とは、文化部だけに文化祭に参加させるのはもったいないと思ったであろう生徒会執行局が、体育系部活動を対象にして自分が持っている一芸を披露してもらおうといったものである。その趣旨は良かったのではあるが、各運動部の企画がそれについていかずに結局は忘年会の宴会状態となってしまったのだ。私がみた平成7年の文化祭では、下品な企画か馬鹿騒ぎしか行われていなかった。確か優勝したのは体操部女子の(レオタード姿の)ダンスだったと思う。
この企画が始まった平成6年の文化祭は生徒の企画力の低下が顕著に現れ始めた年であった。平成5年においては、1年生にしか適用されなかった2クラス1企画制度が再び2年生にも適用されることとなり、余ったクラスを文化部に使わせないで、バンド予選に落選したバンドに使わせるようになった。クラス企画は1〜2日でできるようなものばかりとなり、それら企画はいわゆる「休憩所」となった。このような企画もひとつくらいあれば悪いものではないのだが、ほとんどが心理ゲームやクイズ、研究発表や写真の展示となってしまっては、みる人にとってはやる気や熱気の感じられない、さめた文化祭に見えることだろう。もちろん良い文化祭とはいいようがない。
この年の文化祭の良いところとして、早めに文化祭の準備に取り組んだ(前年の11月から)ことであった。だがクラス企画や文化部の企画との連携がとれていたとは言い難く、内容も前年度のものとは比べようもなかった。平成5年度までは「文化祭への道」という名前の文化委員会だよりを通じて各企画の調整を行っていたが、どうしたわけか平成6年を境に文化祭は生徒との連絡手段を失ったのだ。これが「かくし芸大会」のせいだとしたら、生徒会企画とはもっとも慎重に行わなければならないな、と改めて考えざるを得ない。
12.一生徒からみた平成7年度の文化祭
これは私の母から聞いた話だが、母は昭和45年頃の東筑文化祭を見に行ったらしい。この頃の文化祭も母の目からみればとてもお堅いものであったそうだ。平成7年に私はこの東筑高校の1年生として文化祭に参加することとなり、そのお堅いといわれる文化祭をみることとなった。
こういったら身もふたもないが、私はこの頃文化祭にそれほどの興味は持たなかった。そしてこの年の文化祭がしっかりとしたものであったなら、私が文化委員長になることもなかっただろう。しかし7月9日に行われた平成7年度文化祭はある先生をして「過去最低」といわしめたものであった。これは私も支持せざるを得ない。
この理由はなんといってもクラス企画のいい加減さであった。すべての企画が全くの手抜きで、情けないものであった。この企画の詳細については資料集10ページ表14に記載することにする。クラス企画の劣化の原因は前々から述べてきたが、この年の生徒会執行局も生徒会企画に一生懸命になることで、クラスとの連携がとれずに同じ轍を踏んだこととなったのだ。また、この年も行われたバンド予選の敗者による空き教室での復活ライブは、文化祭の質の低下にこれまた一役買っている。
執行局がこれほどにまで一生懸命になった生徒会企画、それは「社会福祉の向上」をテーマにした阪神大震災のボランティア特集であった。またこの年から東筑高校が「環境モデル指定校」に選ばれたために、堀川を中心とした河川の水質調査をも行った。企画自体はそれ相当の準備がなければ決してできないものであるし、この年の”Everybody Acts!”というテーマに十分に沿っていたものではあるが、何しろほかの文化部やクラスの企画がテーマを無視したものであるから、執行局の努力も焼け石に水であったといえよう。
この当時の文化祭はきわめて殺風景なものであった。飾り付けなどがしてあるのは教室内と一部の廊下だけであり、学校の外から眺めても果たしてここで文化祭が行われているかどうかということを判別することは、(校門の飾り付けと人出の多さを考えない場合)ほぼ不可能であった。多くの企画は教室の内側の壁のみを使った展示企画ばかりであり、そこでみられる生徒の姿はほとんどなかった。だいたいの生徒はほかの企画の名を借りた休憩所で談笑しているか、部活動の部室や体育館で昼寝をしていた。(かくいう私もその一人である)平成7年、生徒にとって東筑高校の文化祭とは全く意味のない、無駄な時間となっていたのだ。
この中でも盛況であったところもある。体育館下ピロティーで行われていた「かくし芸大会」がそれだ。昨年の開催時に掲げられた「文化的なもの・上品なもの」という基準はもはや失われていて、内輪受けするものやまるで忘年会の宴会のような情けないものばかりであった。しかしそういった企画はだいたい生徒にとって人気が高い。清本芳史生徒会長(平成7年度当時)は文化祭について、「すべてなくしてしまって、かくし芸大会だけにしてしまったらどうだろう」と語ったことがある。おそらく多くの生徒(特に体育会系部活動の生徒)にとってはこれが本心であっただろう。これからの流れは言い換えると今のような生徒達の希望とは正反対のことを実現していくこととなる。
13.気質の変化と新興住宅街
私はこの文章のはじめに文化祭の衰退の原因として、「生徒の情熱や伝統に対する意識が変化したから」だと述べてきた。これからの2章ではそのわかりやすい根拠を示し、詳しく述べてみようと思う。
東筑高校には元々「川筋気質」といわれる激しい気性があった。だが現在の生徒には激しい気性があまり残されてはいない。それどころか、他校の生徒からたかられる対象にまでなってしまった。いったい何が生徒の気性を変えたのか、これこそがこの文章のテーマである生徒の情熱を奪った原因と関係があるので、詳しく述べてみよう。
結論から先にいうと、東筑高校の周辺地域における地域性というものがなくなったからだといえる。戦前と比べ私たちの生活は豊かになり、また農業などの第1次産業に属する人々の割合が減少したことによって、私たちには引っ越しというものがきわめてやりやすくなった。多くの人々が北九州西部地域にやってきて、また多くの人々がそこから去っていった。そこにあるものは新興住宅地に特有の、きわめてバラバラな特色を持った人々のみである。
当然のごとく、彼らの多くは本来その土地とは関連を持っていない。そこにどのような気質があったにせよ、彼らがそれを受け継がなければならないという理由はなく、特有の土地柄というものは失われていくのだ。さて、北九州西部地区では昭和40年代を境にして、新興住宅地といわれるものが多く作られた。その代表例を挙げると、折尾東団地、本城団地、浅川・光貞の住宅地、高須団地、千代ニュータウン、青葉台や松寿山など数えるときりがない。これら住宅地には合計すると万単位の人々が生活しており、そしてそこから東筑高校に通う人々は少なくない。さて、これらの人々に「川筋気質」があるだろうか。
東筑高校が極端な進学校化を見せ始めたもう一つの原因がこれであるといえよう。新興住宅地に住んでいる多くの人々にとって、東筑高校とはただ単に交通の便が良くてレベルの高い1高校にすぎないのだ。各高校に独自の個性が失われつつあるという一番の原因はこのような地方のボーダーレス化だといえよう。現在は体育祭のみが伝統という盾を抱えこのような無個性化に立ち向かっているが、将来はどうなるか見当がつかない。
14.伝統の継承、他学年間の交流
新聞部OBの八木秀典氏はPTA新聞である「PTA東筑」の中で、「伝統とは先輩から後輩への技術や主張の伝授、その一つ一つの積み重ねと理解します」と記している。私もその通りであると思う。ただ創立100周年を迎えたからといって、それだけでは伝統校とは決していえないだろう。その100年の歴史の中でどれだけ多くの出来事、教訓、そして想いが受け継がれてきたのかが伝統校といわれる所以であると思う。多くの部活動や体育祭などは伝統がうまく継承された、まさに好例であるといえる。
さて、文化祭の場合は伝統の色合いがきわめて薄いといえる。それはある意味伝統に縛られないという良い意味に解釈されるが、私のような文化委員長経験者からいわせれば、それは若干の誤りがある。いったい何をすればいいのかわからないようになってしまうため、各個人の能力を十分に発揮できない、不十分な文化祭が毎年行われるようになるだろう。もしそんな状態でやる気の全くない文化委員長が選ばれたとすれば、そこで文化祭は崩壊する。
多少横道にそれる話をすると、システムの発展は序数法に言い表すことができる。つまり、初年度は1、次の年は初年度の反省を踏まえ、その分だけ発展して2、といった形で3、4へと発展していく。途中でその循環がとぎれると、システムはまた1からやり直しとなる。現在の文化祭がこれまでの長い歴史の割にさしたる発展を見せなかった理由は、この循環が必ずどこかで途切れていたからだと断言できる。先生方やOBの方々の期待の度合いは加数法のように膨らむ一方だ。この期待を裏切るような循環の停止を防ぐには、伝統の力に頼るほかない。
伝統は循環がとぎれかかった場合の保険であるといえる。1学年上の先輩から何も聞かされていなくても、過去の文化祭に関する文書を読み、OBの先輩、先生からの助言を得ることによって、文化祭という一大イベントを成功させることは可能だ。(現に自分のときがそうであった。)イベント成功のための選択肢の多さこそがその学校の伝統の長さを示しているように思えてならない。
さて、とりあえず当面の文化祭の伝統を維持していくためには1,2学年違いの学年同士が親しく交流しあえれば良いだろう。現行生徒会会則では文化委員長は2年と3年の2回にわたり文化祭を指揮するようになった。(と、いうよりもそうさせた。)このことによって文化祭の直接の伝統がどこかでとぎれることはまずなくなったと思うが、念には念を押しておきたい。できることならばOBやOGになっても時々は文化祭の様子を見に来てくれるような状態になってほしい、そしてそのためにも他学年の人々とも多く交流をもってほしいと思う。これで文化祭は他校に誇れるものへと成長できるだろう。
15.先生方と文化祭
第3部の最後として文化祭の表舞台には現れないが、確実に文化祭の出来不出来を左右する先生方について少し述べようと思う。私が認識する限り、平成6,7年度の文化祭時の文化祭担当教師は木本先生であった。私は直接面識があるわけではないが、平成7年度文化祭の失敗原因と、平成8年度文化祭時に私が必要以上に苦労した原因の一部は、この先生を頼りにしすぎたことで引き起こしたものだといえる。
文化祭の細かいことについて生徒がまるで考えなくなったのだ。私は平成8年のときに1学年上の先輩にいろいろ尋ねにいった覚えがあるが、その答えの多くは「木本先生に聞いてくれ」であった。その木本先生はそのときすでに小倉高校へと転出してしまっている。私は仕方なく過去の資料とにらめっこしながら文化祭を行ったのだった。果たしてそれがうまくいっていたのか、今では疑問が残るばかりであるが、これだけはいえるだろう。先生方に頼ることができれば、それより楽なことはないと思ってしまうが、自分が後輩に手順を教える立場に立ったとき、果たしてそれは本当に楽なことであったのか、伝統が途切れないように、このことについて十分に考えてほしい。
ついでに付記しておくと、東筑高校の先生方の多くにとって、文化祭は体育祭ほど重要視されていないようだ。だいいち「東筑百年史」の巻頭において、前川昭治校長は「文武両道とは、学問と武芸等の特技の錬磨を一体化させること」と述べているように、東筑高校にとって武芸に対局するものは文化ではなく学問なのだ。私たちの最終目標はこのようにいわれている東筑高校の「文武両道」の『文』を文化・文芸活動だ、と誇らしげにいえるような気風を作ることである。もちろんそれは並大抵のことでできることではない。しかし私たちがその思いを持っている限り、それがやがては伝統へと変化して全体の流れを変えていけるのだと確信してやまない。
第3部までは昭和60年代から平成7年までの文化祭を傍観者のひとりとして論じてきたが、これからの第4部からは平成8,9年の文化祭と生徒総会、そしてその他の活動について生徒会活動の責任者の一人として、私が行ってきたこれらの活動の意図、そして今後の課題について論じてみたいと思う。