第2部改訂版目次
《昭和40年代・50年代の東筑文化史》


題名
該当年代
1.学生闘争の時代と三無主義 昭和40年代後半
2.生徒会活動の発展と文化祭の多様化 昭和40年代後半
3.研究班と同好会問題 昭和40年代
4.東筑の「進学校」化と文化祭の危機 昭和30〜40年代
5.文化部・体育部の予算変遷 昭和40年代
6.文化祭組織の確立、クラス企画の活発化 昭和53年前後
7.昭和50年代の文化祭、その変遷 昭和50年代
8.北九州地方の文化遍歴・2 昭和20年代〜現代

2部


1.学生闘争の時代と三無主義

 昭和40年代、世間では俗にいう「学生闘争」の時代に入った。北九州地区も他に洩れず、昭和44年5月の北九州国公立3大学のデモ行進や、同9月の北九州大学の本館占拠事件などがあった。この東筑高校でも学生運動は「自由な発言をさせてほしい」という趣旨から、1968(昭和43)年、自由掲示板の設置要求という形で登場した。この議題は生徒総会において数年間にわたり、熾烈な論議がくみ交わされた。約30年を経た今でも、その当時の資料は多く残されており、このことに関する生徒の関心度が高さが良くわかる。
 論議といえば、東筑高校の生徒総会史上最大の論議であっただろう、「髪型自由許可問題」もこの前々年に許可されている。これも昭和36年あたりからすでに要望があり、文化の面からいえば、高校での自己意見の確立と弁論技術の上達に役立ったことだと思う。ただ、当時のこの出来事における焦点は、「生徒の自主性と信頼」を認めるかどうかということにあったようだ。生徒が一番自由ということに敏感だった時代を物語ることだといえよう。
コラム ー頭髪自由許可問題、その顛末ー
 これはあるOBから聞いた話なのだが、この問題で生徒総会(のような集まり)の中で多数決による採決をとろうということになった。この問題に関心があるのは男子生徒達であり、女子生徒にとってこの問題はあまりピンとこない。当然反応は薄い。
 そんな中、ある男子生徒達はこの問題を解決しようと自分の腕力を交渉の道具としながら、本番の賛成多数を勝ち取った、、、、、そうな。

 文化という面に関わらず、生徒が比較的率直に自分の意見を自由にいえた時代だったように思う。この原因は、普段から代議員会や生徒総会において、活発な意見を出す人が現在よりも多かったことにある。そういう人々に感化されて、いくらかの生徒が自分の意見をいえるようになり、(何事にもいい出し始めの人がいると、ほかの人が意見をいいやすいことは現在の生徒総会においてもいえることである。)結果として、活発な議論ができるようになったようだ。また、弁論部(戦前の講演部)がこの当時はまだ活動を行っていたことも、一因にあったと思う。
 この当時の新聞には「生徒会不振」とか、「やる気なし」と書かれてはいるが、現在のそれとは根本的な違いがあるといえよう。それは生徒会役員が積極的に仕事を見つけ、はっきりとした公約を掲げ、それがうまくいくかどうかは別としても、それぞれが生徒会執行局として、責任感とやりがいとを十分に持って、取り組んでいたということだ。
 時代の流れは「自分達の意志を一致団結して表現する」ことに向かっていた。何かを伝え、そのために懸命に取り組むことで、自分達の存在理由を見いだそうとしていた。この東筑高校では、個人主義を重んじる風潮も未だに根強くある。個人主義自体は決して悪いことではないが、まとまりのない状態になることは否めない。しかしその中でも全体の発展に思いをいだき、最初は嫌々ながらではあるが、文化活動、または生徒会活動に全力を注いでくれる人は確かにいたし、現在もいるのだ。
 「三無主義」という言葉が、この頃の生徒を表すものとして使われている。三無主義とは、「無関心・無気力・無責任」のことで、要は生徒全体の主体性が失われていることをいいたかったらしい。しかし、この言葉は主体性を持っている人々がいるからこそ生きてくるものであって、現在使える言葉では決してない。昭和46年においては生徒総会で話しきれなかったことを、臨時総会を幾度も開くことで補おうとしていた。しかしその多くは人数が定足数を割っており、流会となっている。やる気のあるものが多かったからこそ、それについてこようとしない大多数の生徒を指さして、「三無主義」を叫んでいたのではないか。


2.生徒会活動の発展と文化祭の多様化

 「文化祭」という名の部活動による活動発表会は、昭和30年代には体育祭と併合され、『学校祭』という11月、または10月にまとめて開かれる行事となった。だがやはり準備が大変だったのであろう、昭和40年代の後半には文化祭は9月の第1週、体育祭は9月の第4週にと、再び分離するようになった。この頃の利点は現在と比べ、文化祭の準備に夏休みを使えること、また、この時期までにはクラス内での団結力も増しているであろうことなどが挙げられる。しかし、東筑高校の「質実剛健」の伝統からも影響されてか、どうしても体育祭に重点が置かれ、「文化部の部員は体育祭の練習に時間を奪われ、作業が行いにくい」と高校新聞に書かれるまでとなる。進学校としての意識が高まっていくにつれ、修猷館高校の校是にもみられる「文武両道」という言葉が、いろいろな意味で語られ始めるようになった。しかし、これを校是というにはあまりにも歴史が浅く、昭和60年代まで成立するための時間を要することとなる。
 生徒会活動の基礎ができあがったことに伴い、文化祭が単なる部活動の発表会ではなくなった。文化祭は生徒会執行局の指導力を養うため、そして何よりも、生徒全体の団結力を高めるためにそのスケールを拡げていき、様々な企画が催されるようになった。昭和45年以前の文化祭では『ファイヤーを囲む集い』が開かれた。その後はフォークダンス、「ビバサンデー」(ラジオの公開放送)など、生徒会が主催した企画はほぼ毎年催されるようになり、また生徒会企画のみならず、クラス企画も徐々にその数を増していった。
 この当時のクラス企画は、後年に現れた教育的な面はほとんどないといって良く、パーラーやミニゲーム(1日、2日で準備ができるもの)が来る人を楽しませていたようだ。
 文化部の活動もいろいろな趣向が凝らされるようになった。写真部の写真コンテストや文芸部のクイズ大会、特にラジオ部の「真空管プレゼント」なんていう企画は時代を感じさせられる。しかし、この当時の参加クラス数は2から3がせいぜいで、しかも、執行局自体がこの頃はクラス参加をあまり重視していなかった。つまり文化祭という存在が、この時点では未だ全校生徒ではなく、文化部のためだけの行事であったのだ。このことが、後年の生徒の文化祭に対する意識に影響を与え、今ある東筑高校文化祭の低迷化の根本的な原因となっていると考えられる。
 


3.研究班と同好会問題

 文化部の中には活動の幅を大きく拡げたところもあったようだ。部活動の数こそ変わってはいなかったが、その部活動の中にはいくつもの「研究班」というものが登場して、その活動の幅を一層広いものにしている。たとえばこの当時、「理化部」という部活動があった。この理化部には地学についての研究を行う地学班と、科学についての研究を主とする化学班に分かれていた。やることは似通った点もあるが、根本的に別々の部活と変わりがない。
 このように書くと班としての活動よりも、部活動としてそれぞれ別々に運営していった方がいいのでは、と思う人もいるだろう。しかしこの当時も、今も部活動が成立するのには数年以上の苦労がかかる。このことが昭和50年代以降の東筑高校の文化に多大な悪影響を与えたことは間違いない。
 昭和40年代は数多くの同好会が誕生したが、昭和34年に成立した「静坐同好会」、また昭和49年の「SF同好会」などは部活動にならないままその姿を消した。決してその活動内容はその当時の部活動には劣ってはいなかっただろうが、(ましてや今の一部の文化部とは比べようもないほど活動内容はまじめだった。)何しろ部活動になるには、
  1.  顧問予定教師の認証、
  2.  代議員会の過半数の支持、
  3.  生徒総会で全生徒の3分の2の支持、
  4.  職員会議での先生方の支持、
と、いったような4段階の審査が待ち受けている。中でも難しいものは、Vの生徒総会だ。理由は簡単で、ほかの部活動が自分の部にもらえる活動の補助費が減ることをおそれ、反対票を投じるのだ。(この後生徒総会で起こる硬式テニス・バドミントン同好会の、5年以上に及ぶ部活動昇格問題はこの代表的なものだ)
 こう記述してしまうと、反対票を投じる人たちが悪者のようになってしまうが、それ自体は自分の部活のことを思ってのことなので悪くはない。しかし、それらの今ある部活動が、これから生まれるべき部活動・同好会の登場チャンスを失わせるということは、この東筑高校の文化に悪い影響を与えているとしか思えない。ましてや、後年になって、「よほどのことがなければ同好会は作らない」なんて生徒総会で宣言されてもらうと、新しい文化活動なんて起こり得るはずもないのだ。「研究班」の活躍はこの後の東筑文化の危うさを浮き彫りにしている。


4.東筑の「進学校」化と文化祭の危機

 文化祭は昭和40年代後半から50年代前半にかけて、文化祭史上1、2を争う危機を迎えた。その原因のひとつは校舎の改築であり、もう一つは文化祭に対して生徒会執行局の関心が薄れたことだ。生徒会室には昭和47年3月に「あしや国民宿舎」で開かれた、生徒会執行局の話し合いの記録が残っている。それによると、このときの文化委員会の話し合いで、部活動の活性化や放送委員会の設立とともに、文化祭の規模を縮小、または3年に1回の開催にしてはどうか、という話し合いがあったようだ。もしこれが実行されていれば、文化祭の手順を3年後の生徒会がわからないという欠点が生じ、文化祭の全体的な質の低下、最終的には文化祭の自然消滅もあり得たのだ。
 結局は実施されなかったのだが、もちろん生徒会がこういう提案をするには訳がある。その理由として、生徒会役員の持つ仕事自体が、当初に比べて増加したことがあるだろう。『生徒の意見を代弁すること』が、生徒会の根本的な活動内容であり、生徒総会や各種の委員会がその内容のすべてであった。ところが生徒会の利用価値が見いだされるにつれて、予餞会や文化祭、体育祭などの根本的な計画、運営までも任されるようになったのだ。これに対応するために、生徒会はまず業務のスリム化を図った。
 図書・保健の両委員会が生徒会執行局から分離し、独自活動の活発化を始めたのは昭和30年代からである。表10の3(資料集5ページ目、前半部)には、一応執行委員会の一部として記載されている。しかし、同昭和38年3月に施行された生徒会会則改正案によって、保健・図書委員会は生徒会執行局から分離、特殊委員会という位置づけとなった。この結果、生徒会執行局は学校行事の執行組織としての役割を強めることとなったが、専門組織同士の連帯感や学校の生徒代表であるという意識、そして生徒全体の生徒会執行局に対する意識が大幅に低下することとなった。これが、結果として生徒会活動の低迷化に一役買うような格好となったと思う。
 もう少し、昭和47年3月の資料をみてみよう。文化系・体育系部活動は昭和30年代にひとつのピークを迎えたようで、この当時は停滞期を迎えていた。文化祭の規模を縮小しようという提案の理由はこのことにもよっている。部活動の活性化を図ろうとして部活動推進委員会を結成する考えもあったようだが、実際の効果は定かでない。また、東筑の孤立化を深めた出来事が、『市内風紀委員会』の脱退であろう。これは起業祭での風紀点検などで必要な共同歩調を強めるために創られたものだが、東筑生徒会では脱退して、校内での活動を強める方針だということを記している。現在、他校の生徒会執行局同士と連絡をとるような生徒組織はなく、(委員会同士の連絡組織は、執行局に所属していなかった保健委員会などを中心に、現在もあるようだ)これも東筑高校の孤立主義を深めることとなる。もちろん文化活動にとってこのことが悪影響を与えるということは、いうまでもないだろう。
 ここで生徒会活動の低迷化を招いた、もう一つの原因についてふれねばなるまい。それは東筑高校が『進学校』となったことである。ここでいう進学校とは、福岡県内でいう修猷館高校や小倉高校のことを指しているわけではない。つまり、一部の生徒自身の学校活動に対する考え方が進学一辺倒へと変化したのである。これは愛校心が薄れてきた、と言い換えることができるだろう。学校行事全般に対して積極的な意識を持たず、頭の中では高校を大学への通過点としかみていない、そんな人が増えてきたのではないかということだ。個人主義の進展はこの愛校心の低下にさらに拍車をかける形となるが、これについては後述したいと思う。


5.文化部・体育部の予算変遷

 ここで予算についての話をしてみよう。昭和40年代以降、東筑高校では文化系・体育系両部活動の予算配分の比率が大きく変化した。表1(資料集1ページ目、一番上)をみてもらいたい。表題は「文化部の予算変遷」と書いてある、昭和41年から現在までのグラフで、文化系部活動と体育系部活動の、生徒会予算における金額の移り変わりを表している。文化部・体育部の予算額は当初、昭和20年代以来の4:6の予算配分を維持していたが、昭和50年以降、その差は少しずつではあるが開き始めた。結果として、現在の文化部と体育部との予算格差は200万を超える、とても大きなものとなっている。これは、文化部の活動力低下が主な原因に挙げられている。でも逆に考えてみると、予算が足りないから活動が制限されているのではないだろうか。
 再び昭和47年の資料をみてみると、この予算額の割合は4:6に固定されていたようだ。ちなみにこの年は、野球部が2回目の甲子園出場を決めた年でもある。現在の野球部の予算配分額が多いことからみても、予算の均衡が破れた背景には、運動部の活躍、特に野球部が関わっているように思えてならない。
 文化部の活動というものは、概して表にでるような華々しいものではない。どちらかというと陰に隠れたものだといえよう。大会がそう頻繁にあるわけでなく、従って全校集会で賞状をもらう機会も少ない。部活動のPRをする機会も運動部に比べ、非常に少ないから目立たないし、部員も増えない。おまけに予算も少なくなるから、活動の低下を招いても仕方ないだろう。戦前、及び戦後十数年の文化系部活動が活発だった理由は前述したように、
  1. .部活動の自主活動が活発で、宣伝活動も同様に頻繁に行っていた。
  2. .授業の補助的な内容であったので、予算や時間の配分が豊富であった。
  3. .学校にいる期間が5年間と現在に比べ長かったので、生徒自身の部活動に対する愛着が深くなり、部活動の伝統も創りやすかった。
という3点があるだろう。特にこのB.はすべての部活動で現在問題となっているものだ。特に文化部、または生徒会執行局の愛着の薄れは特に深刻な問題だ。
 体育部が生徒会予算にかける負担額は文化部のそれに比べ、とても大きなものがある。体育部の場合、諸大会への出場費が毎年多く与えられている。もちろん、文化部にも諸大会というものが存在しているが、その出場回数は体育部のそれと比べ、かなりの開きが生じているだろう。とにかく、表3(資料集1ページ目、一番下)をみてもらえれば、生徒会予算にかかる大会出場費のウエイトはわかることだろう。
 体育部にせよ、文化部にせよ大差はない。ここでいいたいことは、文化祭の直接の財源である、生徒会予算の自由に使える部分がかなり限られているということだ。後述すべきことかもしれないがあえていわせてもらうと、現在の生徒会予算はその活動内容から考えても、非常に少ない。特に部活動に多くのウエイトがかかっているので、文化祭の発展には悪影響しか及ぼさない。生徒会費を増やすべきときが来たのではないかと思う。


6.文化祭組織の確立、クラス企画の活発化

 さて、話をもとに戻すとしよう。生徒会資料の中で一番古い文化祭資料は、昭和48年度の文化祭パンフレットである。これをみてみると、相変わらず部活動が主体の文化祭を繰り広げているが、これにも一応の理由がある。まず、文化部の活動が非常に活発であって、ひと教室には収まらず、どの部活動も2〜3の教室を必要としていたこと。そして現在よりも多くの文化部が存在していた(フォーク同好会や吟詠部、手芸部など)ことが挙げられるだろう。 
コラム ー文化祭パンフレットについてー
 どの高校も文化祭で力を入れているものの一つにこのパンフレットがある。これを見ると、その高校における文化祭の伝統がよくわかる、とも言われている。
 たとえば、小倉高校や修猷館高校のパンフレットなどは、業者に頼んだ防水紙で作られていて、それだけでも「すごい」文化祭だろうと想像できる。逆に北筑高校などは更半紙の表紙に「文化研究発表会」とかかれているだけなのだ。
 もちろん、この頃の東筑では、文化祭といえば文化部の発表会のことを指し、(文化祭に他校の生徒が参加できるようになったのは昭和46年以降だから、仕方ないのかもしれないが)他校の生徒からは「堅い」文化祭として敬遠されていた。(この頃の小倉高校の新聞には、東筑の文化祭を明らかに格下とみている記事がある)いいたいことをはっきりというこの時代の生徒が、これに我慢をするはずがない。昭和53年度の生徒総会には、クラス参加を活発にしてほしいという要望が多数のクラスからあった。この問題はかなり活発であったらしく、予備総会を設けての議論を必要とした。ここでの議論は、現在の文化祭が抱える問題を浮き彫りにしている。少し紹介してみよう。
 クラス参加の活発化については多くの人々に賛成が得られていたようだが、この生徒総会で問題となった点は、クラス参加を強制とするか、それとも自由参加とするかということだった。予備総会でのいわゆる、「強制派」の意見は、 といったものである。それに対して「自由参加派」の意見は、 等々いろいろな意見がでた。折衷案も多く出されたが、結局は自由参加ということで落ち着いたようだ。
 歴史に「もしも」は存在しない。しかし、仮にここで全クラス強制参加となっていれば、東筑高校の文化祭は今のものとは全く異なったものになっていただろう。これ以降20年間、生徒会をはじめとして文化祭の改良に腐心してきた人々は数あまたいるが、結局落ち着いたところは「全クラス強制参加」である。我々はとんだ回り道をしてきたものだ。この昭和53年というのは、文化祭にとってはひとつの分岐点であった。この年から文化祭は文化部の発表会という役割から、生徒全体のものへと徐々に変貌していったのである。


7.昭和50年代の文化祭、その変遷

 昭和54年以前の生徒総会は常にグラウンドで行われた。理由は単純なことだ。その当時のふたつの体育館(現在の体育館付近と相撲場の隣にひとつずつあり、大きさは現在のものの半分弱。)では全校生徒を参加させるには手狭だったのである。グラウンドで話し合いを行う、一見オープンなようにも見えるが、これは生徒会執行局にとっても一般生徒においても大変なことである。第一に日差しがきついとだらけてしまう。また、全校生徒が話し合うには広すぎるので、後ろの方の生徒はボール遊びなどを始めてしまう。話し合いは前の方でしか行われず、風紀委員の注意にもガリ勉生徒は耳を貸さない。執行局の準備も体育館に比べれば大変なものだ。これは生徒の意見を活発化させるには非常に悪条件である。生徒の生徒会に関する関心が多かった時代ならいざ知らず、この頃になるとそういう関心を示す人々も少なくなり、「多くの親たちは生徒会の役員をすることよりも、少しでも席次が上がることを望む」(東筑高校新聞)ようになる。生徒会執行局への意識低下はこの頃になると、そのまま文化祭への意識低下に直結することとなった。
 ではこの昭和50年代の文化祭とはどのようなものであったのだろうか。クラス参加の自由化が決まった昭和53年の文化祭は、部活動のほかに、童話研究、自動車研究など9つの必修クラブと1つのグループ参加、そして7つのクラスが参加した。それ以前の文化祭から考えると、規模が2倍以上に膨らんでいる。しかし、バザーの規模は当時の八幡高校の5分の1と小さく、まだまだ成長の余地があった。昭和54年度の文化祭プログラムを、資料集7ページの表11に記したので、参考願いたい。
 これが昭和57年頃になると、パンフレットにもそれなりのデザイン性が生まれ、クラス参加にも美術作品の制作や3本の映画製作など、それ相当の努力がいる作品を作り始めた。生徒による弁論大会も行われ、多種多様な文化祭へと成長した。しかし、その年の文化委員長が持つ手腕の有無によって企画内容は移ろいやすく、また、クラス企画は年毎に関心の度合いが変わり、ひどい年にはテレビ番組のコピーばかりが顔を出すこともある。これ以降の文化祭はどちらかというと、部活動よりもクラス企画の質がそのまま文化祭の質を表すようになった。文化祭の企画・運営を取り仕切る生徒会執行局(昭和50年に文化祭実行委員会が成立して以降、一般生徒も一部参加するようになった)もその年の文化祭の善し悪しをクラス参加の数によって考えるようになり、昭和60年代のクラス参加を中心とした文化祭の発展へと続くのである。


8.北九州地方の文化遍歴・2

 北九州地方は比較的早く戦争の被害から立ち直った。なぜなら昭和21年の政府の方針により、石炭と鉄を国土復興の要だとする「傾斜生産方式」が採用されたからであり、石炭・鉄鉱業を産業の中心とする北九州工業地帯は早くも工業生産の一大拠点として復興した。一方昭和22年に文部省より「新学校制度実施準備案内」が出され、新制高校がスタートすることになった。
 当時の県教育委員会は新制高校に対して3つの姿勢で臨んでいる。
  1. .学区制の設定
  2. .総合制実施
  3. .男女共学制の実施
である。東筑高校・折尾高校・八幡商業高校の3校合併が行われた背景には、この中の2と3の項目が絡んでいたのだ。もっとも2については東筑の場合も含め、小倉、若松などの学校においても失敗することとなった。昭和20年代の学区は「一校一学区制」をとっており、現在のような中学区制をとるようになったのは昭和30年代になってからだった。
 北九州地域は長らく「文化不毛の地」といわれ続けてきた。これはその産業発展のスピードに文化の習熟が追いついていなかったからである、と前に持論を述べたと思う。これを補おうとする動きは戦後すぐに行われた。公民館の設置はそれらの中核を担ったといえるだろう。
 現在の八幡市民会館近くに昭和26年に建てられた地上3階、地下1階建ての中央公民館は、全国的な一大反響を巻き起こした。当時の八幡市長である守田道隆氏が打ち出した、公民館を市民の自主的な教育文化活動の拠点にしよう、という方針のもと造られたこの公民館はのちに全国の都市公民館の模範となり、文部省の指針づけにまで影響したのだ。この昭和20年代後半は地域の勢いに押されたかのように、文化面にも勢いがあった。北九州地域の各高校では文化関係のクラブが活発になり、特に読書コンクールや演劇部の活躍が目立ったようだ。また、現在の九州国際大学の前身である八幡大学や、北九州大学ができたのもこの頃である。
 北九州・筑豊地域の勢いは昭和30年代を迎え、その力を弱めていった。昭和35年以降高度経済成長を支えることになった石油化学工業や機械加工工業を欠くこれら地域は、これ以降伸び悩みの時期を迎えることになる。世にいう「エネルギー転換政策」は、日本の高度成長期の立て役者ではあったが、北九州地域には決して好景気をもたらさなかった。そして鉄冷えの時代を迎えることで、産業の町・北九州は新たな道を探らざるを得なくなったのだ。 
コラム ー「福岡県西京市」?ー
 本文に「北九州市は公募の中の第2位」であったことを書いた。では第1位は何であったのか。答えは「西京市」。今から考えると恥ずかしい名前だが、でもそう書きたくなる理由もわからなくはない。当時の北九州市は翳りを見せていたとはいえ、九州でもっとも活気のあった市であったのだ。
 公募のほかの名前として、「若戸市」、「北九市」、「洞海市」、「昭和市」などがあった。
 時はさかのぼって昭和38年、北九州市は5市対等合併に伴い全国6番目の政令指定都市として誕生した。市名は公募総数第2位のものが選ばれ、様々な基本方針が打ち出された。文化の育成もそれらの中にもちろん含まれている。この当時の市民各界の代表達による公聴会の意見では、国立高専の設置や青少年施設の充実などが意見として出された。これに答えるかのように、昭和50年前後には市立美術館、中央図書館、そして音楽ホールなど様々な文化施設が作られた。これと前後して東筑高校にも文化祭の改善が提唱されたのは、決して偶然の一致ではあるまい。
 昭和30年代を迎え、環境問題が北九州地域の一大問題となっていく。昭和38年には北九州市公害防止対策審議会が設置され、46年には「北九州地区産業公害総合事前調査報告書」が作られた。これは通産省が福岡県、北九州市と共同で作られたもので環境アセスメントの草分け的なものだといえる。また喘息が公害病として指定され、八幡西区の城山小学校では昭和42年に空気清浄機45台が設置されている。(ちなみにこの小学校は公害の悪化により廃校となった)
 昭和50年代、鉄鋼業界はいわゆる鉄冷えの時代を迎えた。それと同時に北九州地域にある主な工場施設が老朽化し、多くの技術者が千葉県の君津に建設された製鉄工場に移動し始めた。鉄鋼業によって誕生し、鉄鋼業によって栄えた北九州市は転換期を迎えることとなったのだ。そしてこの問題は現在にまで至る人口の減少問題の直接の原因にもなっている。
 北九州市が力を入れてきた環境問題と文化向上は、現在その効果を見せている。特に環境問題に関しては、かつては死の海といわれてきた洞海湾に数十種類の魚が生息するようになったことからも、全国有数の成果を上げてきている。文化面に関しても、平成5年に完成された音楽ホール・響ホールや国際村交流センター、CCA(現代美術センター)など福岡市と同じく国際交流を重点に置いた文化施設を次々に作っている。折尾地域に関しては、21世紀になって八幡西区と若松区の両区にまたがる地域に、3大学合同の学術研究都市が造られ、東筑高校が属する同地域は学園都市としての姿をますます強めることとなるだろう。
 新しい産業を育成することこそが北九州地域の再発展への重要な鍵となっていくだろう。だがそれが福岡市のようにその都市としての独自色を失っていく原因となるのなら、北九州はその都市としての価値を失うこととなる。近年芦屋町にできた「芦屋釜の里」は地域の失われた文化を取り戻すための重要な施設となっていくだろう。そして私は平成13年までに北九州市の各小学校区に設立される、「市民福祉センター」に新たな文化の育成を願わずにいられない。
 第2部はクラス企画の成立、発展までを記述してきた。いよいよ平成7年にまで至る第3部を述べることにしよう。第3部はこれまでと違って資料も非常に豊富なので、文化祭の企画・運営を支えた文化委員長、そして生徒の代表である生徒会長を中心とした歴史を、様々な運営システムの変更に至る経緯などを交えながら述べてみようと思う。