東筑文化祭の盛衰とその原因
第1部改訂版目次
《明治期〜戦後初期にかけての、文化部を中心とした東筑文化史》
題名 | 該当年代 |
1.文化活動の黎明期 | 明治期〜昭和初期 |
2.文化活動の発展、そして戦争 | 昭和10年代 |
3.生徒会の成立と現行文化祭の誕生 | 昭和20年代 |
4.文化活動の復活と男女共学 | 昭和20年代 |
5.折尾高校の分離と文化祭の変化 | 昭和30年代 |
6.北九州地方の文化遍歴・1 | 明治期〜昭和10年代 |
第1部
コラムーなぜ合唱部ではなく、「音楽部」?ー
これはただ古いからと言う理由ではない。元々音楽部は合唱と吹奏楽の2部門を統合しているものであったのだ。しかも、戦前までは合唱よりもむしろ楽器演奏の方が中心であった。これは成立がラッパ鼓隊を母体としていたことからもよくわかる。戦争時の鉄器供出によって楽器演奏が実質不可能になるに及び、ようやく現在の合唱音楽部が成立したのである。 |
コラムー東筑高校の親戚?ー
東筑高校に関係が深い高校はまず、嘉穂高校が挙げられる。東筑中学は現在の場所に明治35年に移転するまで、嘉穂中学校の建設予定地に仮校舎を設けていた。OBの方々に言わせれば、嘉穂高校は「兄貴分」なのである。 折尾高校に関しては、本文に書かれているとおりである。意外と知られていないのが北筑・八幡南の両高校。実は両校設立のための準備室はここ、東筑高校におかれていたのだ。 |
コラム ー「東筑」とは?ー
そもそもこの「東筑」という名前はどこから出てきたのだろうか、「東筑百年史」によると、これは「旧筑前国の東部」という意味であったようだ。もっとも、初期の同窓生の中では異見を残している人もいて、一概に断定はできないが、まず間違いないと思う。ちなみに現在の東筑高校がある場所は元々、「清水ヶ元」「瀬道田」という字を持った地域であり、元々「東筑」という地名はなかったのだ。 |