東筑文化祭の盛衰とその原因

第1部改訂版目次
《明治期〜戦後初期にかけての、文化部を中心とした東筑文化史》

題名 該当年代
1.文化活動の黎明期 明治期〜昭和初期
2.文化活動の発展、そして戦争 昭和10年代
3.生徒会の成立と現行文化祭の誕生 昭和20年代
4.文化活動の復活と男女共学 昭和20年代
5.折尾高校の分離と文化祭の変化 昭和30年代
6.北九州地方の文化遍歴・1 明治期〜昭和10年代


はじめに.

 日本中の学生に、「学校行事の中で何が好きか」という質問を出すと、おそらく体育祭と同じくらい人気があるのが、文化祭であろう。しかしここ数年一般的に、文化祭が低迷化しているとよくいわれる。受験戦争や生徒の想像力の低下が、その原因だともいう。果たしてそれは正しいのだろうか。私はここ『東筑高等学校』の生徒会資料を、昨年度より整理・集計してきた。そこでの作業を通じて判明した、文化祭の衰退原因をこの文面において論じてみたいと思う。
 私は高校の文化祭が一般的に衰退した理由を、「情熱」、そして「伝統」に対する意識が根本的に変化したからだと考える。では、それを回避することは不可能であったのか。その答えを探るには、文化面の歴史からみた、高校文化祭の衰退の原因を述べてみなければなるまい。まずは第1部において、文化祭の原型を作り上げた文化部中心の歴史から述べてみたい。

第1部


1.文化活動の黎明期

 東筑高校は1898(明治31)年に旧制中学校として開校され、100年以上の伝統を持っている。藩校由来以外の県立中学校としては、現存する中では県下でもっとも古い学校だ。後者は当初飯塚(現在ここには飯塚コスモスコモンがある。)に仮校舎が置かれ、折尾には明治35年に新しく校舎を造り、移転してきた。飯塚仮校舎時代、部活動といったようなものはなかったが、部活動の原型となったであろう、様々な活動があったようである。現在、それを知る手だては文書によるほかなく、資料不足のため詳細はわからない。
 この学校の文化行事でもっとも古いものは、明治38年9月3日に行われた講演部大会で、内容は弁論大会というよりも、諸先輩方の現況報告や訓話が中心であった。これと昭和6年より行われた創作学芸品展覧会のふたつが、初期の文化祭が部活動の研究発表や講演会中心であったことから、現行文化祭の直接の原点だと思われる。しかし、明治・大正期には文化系行事よりも、体育系に力が入れられていたらしく、講演以外に生徒が行う文化行事はなく、体育祭や寒稽古、暑稽古、クラスマッチなどの体育系行事が活発に行われていた。なぜ文化系行事は発展をみなかったのであろうか。
 理由は幾通りも考えられるが、まず第一の理由、これは今でもいえることだが、当時の文化活動を教養としてではなく、上級学校への受験知識としてでしか理解していなかったことが挙げられる。素直に文化活動を楽しめなかったのだ。
 次に北九州・筑豊地方の文化発展の遅れが挙げられる。北九州地方が本格的に発展したのは20世紀に入ってからで、しかもそれは重化学工業による急激な経済発展を伴った。筑豊炭田で働く人々の大半は藩や政府の政策によって、浪人・囚人など経済力のない人々でしめられた。文化にはそれを育てるだけの経済力が伴わなければ、文化として成り立たない。また筑豊炭田・製鉄によって町は活性化し、大正期には4大工業地帯のひとつに数えられるようになったが、それには京都や東京にみられるような文化を育成するだけの時間はなく、これが東筑高校の文化発展にも影響したといえよう。
 文化的行事が本格的に始まったのは、昭和初期のことである。まずはじめに「学科研究会」というものが、国漢・物理化学・商業・地歴・博物・書道の各教科で成立した。この研究会を基本として、理化部や地歴部をはじめとする主要な文化部ができあがったのだ。
 これらの新しい部活群が正課授業と連携し
コラムーなぜ合唱部ではなく、「音楽部」?ー
  これはただ古いからと言う理由ではない。元々音楽部は合唱と吹奏楽の2部門を統合しているものであったのだ。しかも、戦前までは合唱よりもむしろ楽器演奏の方が中心であった。これは成立がラッパ鼓隊を母体としていたことからもよくわかる。戦争時の鉄器供出によって楽器演奏が実質不可能になるに及び、ようやく現在の合唱音楽部が成立したのである。
て、夏休みの課題や部活動の成果を「創作学芸品展覧会」として開催した。現在の文化祭の部活動展示はここにルーツがあり、講演部大会とともに東筑高校の文化祭を作り上げた。講演部大会は総合学芸大会と名を変え、弁論だけでなくピアノ演奏や合唱、会話劇、研究発表なども加わり、学校文化祭の基礎ができあがってきたのだ。
 この頃の文化部興隆を語るには、音楽部の成立を外すことはできない。総合学芸大会において合唱・演奏が活発になったこともあって、音楽部設立を望む声が高まっていた。そこで昭和8年にラッパ鼓隊が編成されたことが直接のきっかけとなって、昭和9年に設立されたのだ。この頃までには有光一校長(11代)の提唱によって、『質実剛健』という校是のひとつがほぼ確立し、バンカラで気性の激しく、情熱あふれる初期の東筑生像ができあがった。


2.文化活動の発展、そして戦争

 戦前の文化活動が確立したのは昭和10年代に入ってからである。比較的早くから活動を行っていた美術部や書道部などは、正課授業とも連携して開校記念日をはじめとした年に数回の展覧会を行い、また多数のコンクールにも出展した。同好会であった理化部と地歴部なども校内だけでなく、県主催の展覧会にも出展している。文化部の中でもリーダー的存在であった講演部は、明治専門学校(現在の九州工業大学)主催の弁論大会をはじめとして、若松中学(現在の若松高校)との対抗弁論大会など、やはり他に洩れず活発な活動を行っていたことがわかっている。
 現在の文化部の活動よりもこの当時の活動の方が活発であったといえることが何点かある。まず、すべての部活動が通年して活動を行っていたことだ。現在の文化系部活動の中には、文化祭以外には全く活動を行っていないところもいくつかあるが、この当時の各部は定期的な展覧会をはじめとして、より多くの活動を生徒の身近なところで行っていたようだ。
 当時の旧制中学校が5年制をとっていたことも、間接的に部活動を盛り上げる一因になっていたのではないだろうか。創立70周年記念誌の中でも、当時の生徒と今の生徒との比較についてOBの方々は、「昔は5年で、今は3年。その期間によって愛着の心が違うのじゃないでしょうかね。」(佐藤嘉矩氏)というように、今より多くの時間を同じ学校に所属していることで、その学校、はたまたその部活に注がれる情熱というものは自ずと違ってくるものではないだろうか。そういう理屈抜きにしても、この頃の部活動の記録をみてみる限り、今の私たちにとって抑えられがちな情熱というものが伝わってくる。
 部活動が生徒により身近だったこともその理由のひとつに数えられる。前述した総合学芸大会では、数回かの練習会(当初は弁論中心)を設け、参加する生徒を運動部・文化部を問わず募集した。弁論のクラスマッチもあったようだ。これらの中から英語暗唱や合唱・演奏、詩吟などの発展的なものが登場し、この当時の文化部発展に一役買ったのだ。美術部や書道部についても同様に作品募集をよく行い、ほぼ同じ時期に展覧会を行った。この展覧会も発展していき、理化部や地歴部の設立に貢献することになる。この当時の文化部が現在のそれと大きく違う一点はその活動の柔軟性にあったといえよう。
 これだけ発展していった文化部も、時代の流れには勝てなかった。1931(昭和6)年の満州事変、1937(昭和12)年の日中戦争をはじめとした戦争への時流は、文化活動のこれ以上の発展を許さなかったのだ。昭和初期からその兆候はあった。「満蒙」「非常時」という言葉が学芸大会の題目の中に徐々に掲げられた。海軍主催の映写会もたびたび開かれるようになった。高校教育の中に「作業科」というものが設けられたのもこの頃である。これは道路整備や農園造営などを行うボランティア活動の一種ともいえるが、やはり戦争開始に備えたものであった。
 体育系行事では、雪中行軍やマラソン大会などがよく行われた。さすがに太平洋戦争開始以降は体育系部活動の方でもそんなに活発な活動は行えなかったようだ。(だいいち部活動自体が昭和16年の時点で解散させられてしまった)しかし、文化系部活動が戦争のために被った活動上、また思想上においての大幅な進歩の遅れに比べれば、それほど深刻ではなかったように思える。
 何しろ1940(昭和15)年当時の文化系部活動12部のうち、創部10年を迎えているものは講演・図書・会誌・園芸・美術の5部しかないのだ。中には昭和10年以降にできた商業部や吟詠部のようなところもある。東筑高校の文化は長い雌伏の期間を過ぎ、実質的には始まったばかりなのだ。そんな時期に起こった太平洋戦争が各文化部に与えた影響は、それこそはかり知れないように思う。ちなみに昭和19年6月、北九州の5市(小倉・戸畑・門司・八幡・若松)は学童疎開都市に指定され、また空襲被害を防ぐために家屋や工場、計28000戸が強制疎開された。戦後の政府の方針によって北九州地域は戦前の活気を取り戻したが、文化面においてこの時期に文化の育成ができなかったことは、東筑高校にも多少の影響を及ぼすことになる。
 終戦当時のことについて書かなければならないだろう。昭和20年8月15日に終戦を迎え、全国各地で大幅な教育方針の転換が行われた。いったいどれほどの生徒がすぐに順応できただろうか、たぶんこの変化に一番とまどったのは予科練や軍隊に行った生徒達であろう。東筑中学校(ただし、併置中学校)では10月1日に陸海軍復校生入校式が行われ、こういった生徒達も学業に復帰しただろうと思われる。しかし、この当時「予科練くずれ」という、平気で欠席をしたり、喫煙や飲酒をしたりしていた生徒もいたことも事実である。手持ちの資料から詳細はわからない。


3.生徒会の成立と現行文化祭の誕生

 現在、生徒会と呼ばれる組織が誕生したのは一般に終戦後のことである。東筑高校も他に洩れず、昭和24年に現行生徒会が誕生した。それ以前は学友会という組織があり、総会を中心として各部活動を統率していた。ただし、この組織は先生方が代表を務めていることから、完全に生徒が主体となっていない未分化な組織なので、必ずしも生徒会とは同一視してはいけないものだと思う。
 昭和23年10月10日・11日に東筑高校初めての『文化祭』が挙行された。2日間にわたり、3人の講師による講演が行われ、音楽会や生徒作品の展示、また劇や座談会もあったらしい。ただこれはどう考えても、今の文化祭とはイメージが違う。どちらかというと戦前に行われた学芸大会の名前が変わっただけ(いや、それより退化しているのかも)のように思える。現在行われている文化祭の根本は、この当時まだ合併していなかった、折尾高等学校の影響が強くあったのではないかと考えられる。
 そう考える理由としては、前述した現行文化祭との主体性の違い(つまり講演を中心とした、生徒に文化を教える受動的なものか、生徒が日頃の文化的活動の成果を発表する能動的なものかという違い)と、東筑高校よりも折尾高校の方が文化に重点があったことが挙がる。1930(昭和5)年の旧制折尾高等女学校の学校要覧には、東筑にはなかった、文化活動を主催するための「学芸部」というものが運動部と並んで書かれている。これは講演会・講習会・学芸会や音楽会の開催を取り仕切るための組織であったらしい。「質実剛健」がモットーの東筑にはそういった組織はなく、(文化系部活動の総称としての『学芸部』は大正時代にできあがったが。)このことからも文化祭の成立については、折尾高校から編入された女子生徒の貢献度が非常に大きいと思う。
 1947(昭和22)年に制定された教育基本法によって、昭和23年4月1日より旧制東筑中学校は東筑高等学校となった。そして翌年の昭和24年5月6日には近隣の折尾高等学校・八幡商業高校と合併して、現在の校章(3本の矢がアレンジされているもの)ができあがった。同時に生徒会が誕生したのである。
 北校舎(現在の東筑高校)、南校舎(現在の折尾高校)の両方で生徒会長選挙が行われ、3名の候補の中から伊藤保親氏が初代会長となった。ここから考えると、ちょうど創立百周年(1998年)の生徒会長は49代目になるだろう。生徒会会則を制定する準備に追われながらも、この初代生徒会役員の努力の結果、東筑高校の伝統と折尾高校の伝統があわさった、現在まで続く『文化祭』の原型ができあがったのだ。
 『東筑学報』の昭和26年の文化祭についての記事をみてみると、初期の文化祭は部活動が中心で、文化系部活動15部が、現在の文化祭にみられるような作品展示や演奏・合唱などを行っていた。詳しくは表9(資料集3ページ目)をみてもらいたい。大規模な生徒会企画は、終戦直後の資材・資金不足のためか、それともそういうことは考えられない時代だったのか、資料からわかる限り存在していない。当初の『文化祭』が生徒主催のものか先生側主催のものかについても、資料不足のためわからない。文化祭はその後、開催しない年も数回かあったらしいが、昭和30年代後半を過ぎてからは、規模の拡大・縮小はありながらも毎年行われていたようだ。
 「文化祭」という行事が正式に誕生することによって、一般的に文化系部活動は盛り上がっていくように思えた。しかし、現在の状況から考えると、戦前に行われていたような自主的な活動の方が、より一般の生徒に親しみやすく、部活動自身も自分達の活動を見せようという意欲がわきやすいように思えてならない。これは決して文化祭が不必要なものだといっているわけではない。
 現在も比較的活発な活動を維持している音楽部や吹奏楽部などは、自分達の活動を一般の生徒に積極的にアピールしている。戦前の各文化系部活動も同じようなことを年に3、4回行っていたようだ。こういう自己アピールは部活動の活動を活発にするだけでなく、自分の部活動に誇りを持つことにも役立っているように思う。このことからも、各文化部の自主的な活動が文化部自身にとって非常に良いものであることがわかる。
 この頃の部活動はまだ生徒会組織に入っていない。校友会という、戦前から存在している学校組織の中にあって、文化部16部、体育部14部、実業部4部が活動していた。この実業部というものは、珠算部、タイプ部、経済調査部、厚生部の4部からなり、どちらといえば文化部に所属してもいいものを、(実際「東筑80年史」には経済調査部が文化部のひとつとして書かれていた)商業高校を合併した影響からか、独立したものとさせている。これら4部のうち、経済調査部は昭和28年には早くも姿を消し、ほかの部も1956(昭和31)年の折尾高等学校との2校分離により、商業科を持つ折尾高校へと活躍の場を移した。



4.文化活動の復活と男女共学

 終戦直後の昭和20年代、資材不足にもかかわらず、多くの文化部は活発な活動を行っていた。昭和23年5月には、新生東筑新聞部による東筑学報(現在は東筑高校新聞と名を変えた)第1号が発刊された。内容はPTAの成立についての特集記事、詩や小説、部活動や学校行事のことなど様々だ。戦前には会誌部という部があり、年間の学校の様々な活動や詩文、卒業生の現況などを載せた『学友会誌』というものを発行していたが、この新聞部は文化史の面では会誌部の跡を継いだものだといえよう。このほかに新しく映画演劇(演劇)部や工作部、放送部などが新しく戦後の部活動として産声を上げた。
 新しい部活動の登場は、結果として他の部活動にも活気を及ぼすこととなる。理由を挙げてみるときりがないが、まずいえることとして、新しくできる部活動は生徒全体が持つ、「やる気」を刺激するカンフル剤となるからだ。後述するだろうが、現在の文化系部活動が低迷化しているひとつの理由は、ここ数十年間のマンネリ化した文化部全体の雰囲気が、生徒のやる気をそいでいることが挙げられる。つまり、毎年同じような内容を同じような感覚で行うと、部員の心に慣れが生じる。その慣れは活動の迅速さを促進するだろうが、魅力というものを伴わない。結果、生徒のやる気がそがれ、その部活動自体の魅力も失われるのだ。現在の文化系部活動はESSの誕生以来、約20年間ずっとこのことに悩まされているが、生徒会をはじめとする諸活動も低下している今、これを挽回することは並大抵のことではないように思う。
 文化面において表立つことではないが、おそらく大きな転換点を呼び起こしたこと、それは男女共学だったのではないだろうか。昭和26年の学校要覧をみてみると、学習指導要項の中に「南校舎に1年生全員、北校舎に2、3年生全員を収容」と書かれている。(もっともそれ以前は南校舎に女子、北には男子という風になっていたようだが)資料の上では何事もなかったかのような書き方をしているが、「職員会で女子便所設置のことでずいぶん珍妙な論議をしたことがありましたよ。男子ばかりのところへ女子が突然入ってきたものだから、こちらもすっかりあわてたのですね」(竹尾昭先生・当時)と、実際は先生方ですら大慌てであったようだ。
 現代を生きる私たちにとっては、こういう風にいわれてもいまいちピンとこない。だが戦前から戦中にかけては、通学路から汽車の車両まで男子中学生と女学生は隔離されていたという。この当時の生徒にとってみれば、全く異次元の(しかもあこがれであっただろう)存在が、ある日突然自分の身近にいるようになってとまどっている、まあそんなところだろう。この男女共学によって一番大きく変化したものは生徒の気風ではなかっただろうか。
 旧制中学校時代の東筑生徒は、堀川の石炭線の船頭に喧嘩っ早いことでおそれられたとか、折尾駅の駅員とよくやりあったとか。一番ひどい話では小倉との野球の試合で、「負けてね、小倉の生徒が優勝旗をかついで、喜んで帰っているやつを、東筑の生徒が待ち伏せして、ふんだくって持ってかえって、それを講堂に飾っている。」(松尾四郎氏)ようなこともあった、このようなある意味危険きわまりなかった生徒の気風が、共学という一大事を経て礼儀正しく、おとなしくなったようである。
 この当時の新聞の中に、東筑高校の生徒の善行について記事があった。ひとつは子連れの夫婦をみて、「赤ん坊が寒そうだ」と思った一男子生徒が、自分の制服をかけてやったというもの。もう一つは修学旅行の行き帰りの汽車を降りるとき、東筑の生徒は列車を掃除してからでていったというものだ。この記事の中に「男女共学になって女子に遠慮してからか、生徒の気風がやわらかくなった」という言葉がある。男女共学が生徒に与えた影響は様々なところに及んだといえよう。


5.折尾高校の分離と文化祭の変化

 昭和30年代になって再び大きな変化が起こった。
コラムー東筑高校の親戚?ー
  東筑高校に関係が深い高校はまず、嘉穂高校が挙げられる。東筑中学は現在の場所に明治35年に移転するまで、嘉穂中学校の建設予定地に仮校舎を設けていた。OBの方々に言わせれば、嘉穂高校は「兄貴分」なのである。
 折尾高校に関しては、本文に書かれているとおりである。意外と知られていないのが北筑・八幡南の両高校。実は両校設立のための準備室はここ、東筑高校におかれていたのだ。
南校舎が折尾高校として分離独立することとなったのだ。それと同時に東筑高校の校舎も改築することになり、生徒はそれまでの活動を大幅に変えざるを得なくなった。文化部、及び文化祭にとって一番の衝撃とは、まさにこのことだろう。主要な文化部の改編・統合を数年間で実行しなければならなかったからだ。ましてや、高校生活は3年間と限られている。たとえ活動の手順をよく知っている人がいたとしても、3年間で総入れ替えしなければならない。この年を境に、伝統や基盤がしっかりとしていなかった部活動は、活動の停滞期を迎えることとなる。この頃の映画演劇(現在の演劇)部などは代表例だといえる。
 そんな中で新しい部活も誕生した。ブラスバンド(現・吹奏楽)部が復興したのもこの頃だ。戦前は音楽部として総合学芸大会には必ず演奏をしていたが、おそらく戦時の供出によって楽器がなくなったのであろう、終戦後の音楽部は合唱のみの活動になっていた。そのほか、静坐同好会などユニークな活動もあり、この当時の生徒の柔軟な考えと実行力のほどが良くわかる。
 昭和30年代の文化史の中でも大きな変化を起こしたものは、「予餞会」(3年生お別れ会のようなもの)の規模が市民会館を貸し切るといった、大規模なものになったことだろう。予餞会は昭和2年に「5年生主催学芸会」としてスタートして以来、東筑高校のメイン行事のひとつとして戦時中を挟んで2、3月頃に行われていた。昭和初期の頃は映画館で映画鑑賞や寸劇を行っていたようだ。
 文化祭はその成立過程から、比較的早い時期にその運営形態が生徒会執行局の方に移行されていたようだ。またクラス企画を募るということも、昭和30年代にはやっていたのではないかと思われる。ただ、あくまで希望によるクラス参加であるから、当然文化的な(生徒側からみればお堅い)もの、または必要以上に手間のかかるものなどは、よっぽどの物好きでない限り期待できるはずもない。また、早い時期から強制参加にしなかったことが、他校の文化祭に後れをとった一因になったのかもしれない。1963(昭和38)年には体育祭も、生徒会の自主運営という形をとることとなった。


6.北九州地方の文化遍歴・1

 第1部の最後として、北九州地方の戦前文化史について述べてみよう。北九州・筑豊地方の中で小倉や門司は関門海峡の近くという地理条件上、古代以降、軍事的拠点という役割を果たし繁栄してきたが、明治期になり石炭の重要性が高まってくるにつれ、芦屋や若松も石炭の積み出し拠点として栄えるようになった。筑豊炭田にあった黒いダイヤーー石炭が北九州の今後の運命を決定づけることとなる。明治24年には現在の鹿児島本線・筑豊本線が開通し、石炭の生産は本格的になり、そして明治30年、東筑中学の設立が決定した年に官営製鉄工場の建設地が福岡県遠賀郡の八幡村に決まった。
 八幡製鉄所の開業以降、北九州の近代文化が急ピッチで造られてきた。北九州市の一大観光資源になっている門司港レトロ地区の建物は、この当時にできあがったものがほとんどで、文豪・森鴎外も明治32〜35まで小倉に軍医部長として赴任している。起業祭も明治34年11月に初めて催された。決してそれまでの文化レベルが低かったわけではないのだが、(たとえば庶民レベルの面からいえば、北九州市には15もの無形文化財がある。)小笠原藩の城下町である小倉地区はともかくとして、遠賀川沿いの筑豊・北九州西部地区には(中世には「芦屋釜」のようなものもあったが、)近代まで続く文化的象徴が存在しなかった。東筑高校の文化レベルが小倉高校のそれと比較して、一段劣るのではないかという意見がある根本的な原因はここあたりにあったようだ。
 東筑中学の設立理由として、北九州地区の急激な
コラム ー「東筑」とは?ー
 そもそもこの「東筑」という名前はどこから出てきたのだろうか、「東筑百年史」によると、これは「旧筑前国の東部」という意味であったようだ。もっとも、初期の同窓生の中では異見を残している人もいて、一概に断定はできないが、まず間違いないと思う。ちなみに現在の東筑高校がある場所は元々、「清水ヶ元」「瀬道田」という字を持った地域であり、元々「東筑」という地名はなかったのだ。
人口増加と高くなる小学校就学率(明治30年代後半には95パーセントを超えている。)が一番に掲げられたのだが、その原因は筑豊炭田の開発にあり、東筑は石炭と製鉄によってできあがったといっても良い。昭和30年代に行われた「エネルギー転換政策」、またはその後に起こる鉄鋼業界の不振化によって、素材生産の重点度が高かった北九州地区は甚大なダメージを受けたが、これはもちろん東筑高校にも様々な悪影響があったものだろう。
 周辺地域が活発であることは文化に限らずいろいろな面でプラスになると思う。多くの人間が集まることもそうだが、何よりも生徒の中に活気ややる気が生まれることが一番の利点である。何事もやりたいと思う気持ちと、それを育てる雰囲気がなければ新しいものは生まれない。そういう点において、戦前の北九州地区は活発さに恵まれていたといえよう。昭和13年には火野葦平が「糞尿譚」で芥川賞を受賞し、文化にも地域の勢いが加わったが、やはりここにも戦争の悪影響が及ぶことになる。これについては前述した通りだ。
 さて、東筑高校の文化史について昭和30年代まで述べてみたが、北九州の西部という、石炭の輸送地点でしかなかった地域で文化の花が開くということは、やはり難しいことなのかもしれない。しかし戦争の波濤にのまれながらも、東筑高校の文化は一歩ずつ成長を続けてきた。その原動力となったのは、ひとえに文化部の生徒や文化を純粋に愛する地域の人々の情熱のたまものである。しかしそれら原動力は残念ながら、今日の多くの高校生に受け継がれるようなものとはならなかった。第2部からは学生がいろいろな意味でもっとも行動力を発揮した、昭和40年代からの歴史を振り返り、いったい何が文化部の情熱を、生徒会の行動力を奪ったのかをときおりグラフなどを交え、述べてみることにしよう。